F100題:33 獣人 武田軍における宴会部長の存在は、いまや単なる一楽師の身分から外れたものになっていた。それはさまざまな偶然や不可抗力から生じた誤解によるものなのだが、もうすっかり訂正可能な範囲をこえて、本人の想像以上に人々の意識に定着しつつあるらしい。 事情通な戦忍が教えてくれたところによれば、眉唾物のうわさも含め、諸外国にもしっかりと広まっているとのこと。…冗談ですよね? と期待して彼を見ても、肝心の男はうすく笑っただけだった。 ゆえに、今の今まで半信半疑だったのだが――この目の前の客人の反応からすれば、まぎれもない事実であることは明白。…なのかもしれない。 ――アンタが宴会部長ってやつか? 正真正銘初対面、しかし話には聞いていた奥州の頭領。 長身、隻眼、青い着物をまとった二十歳ほどの男。 ……戦忍からの情報とぴたりと一致する。間違いない。かの戦国の有名人、乱世に遅れて生まれた男。独眼竜の異名を持つ、奥州筆頭伊達政宗だ。 「へェ……。狐狸妖怪の類には見えねぇがな……」 顎に手をやりながら、しみじみとを見下ろす男。 地味な紺色の小袖に着替え、自室前の縁側でのんびりと鼻歌を歌っていた宴会部長どのは、突然の緊急事態になすすべもなく硬直していた。 (なんでこの人がこんなところに!?) の自室は、敷地のもっとも端に位置する。 先日の戦で甲斐に敗北したとはいえ、未だ奥州の統治をあずかる大名が、わざわざ出向くようなところではない。 しかも、見るかぎりでは一人の随行もなく。 まるで、その身一つでふらりと 『宴会部長』 を見物にでも来たかのようだ。 は政治のことには明るくないが、現在、この男の立場がかなり微妙なものであることは小耳にはさんでいる。 ――川中島の決着後、甲斐と奥州は同盟を結んだ。事実上、伊達の敗戦だったが、武田から同盟を差し向けたのだ。甲斐が望んだのは、従属ではなく同盟。そこには武田信玄の高度な政治的判断があったという。 『のう、よ。奥州の領地は北に広く、たいそう厄介だ。あれの平定には、いささか骨が折れるやもしれん。――わしが何故、あの若造の首をとらなんだか、お主はどう考える?』 たわむれに問いかけた信玄に、は内心だらだらと冷や汗を流しながら答えた。徳利の酒をゆっくり注いで時間を稼ぎ、ようやく思いついた言葉を口にした。 『北だから……ですか?』 『ふむ?』 『お館様は、ご上洛を目指していると、聞きました。奥州ではなく、京を。……あの、あまり上手くは言えませんが』 しどろもどろのの回答に、しかし信玄は怒ることも呆れることもしなかった。ただ、目を細めて笑い、ぐしゃぐしゃと宴会部長の頭を撫でた。――つまり、そういうことなのだ。 伊達政宗は、甲斐にとっての利用価値ゆえに生かされた。 でさえも、それが賭けに近い大胆な決断だとわかる。いつ牙をむくか知れない独眼竜をあえて身のうちに引きこもうなどと、まさしく諸刃の剣だ。 ――そんなふうに、なんともいえない気まずい身分の権力者が、なぜか今、まじまじとを見下ろしているわけであって、はなはだしく油断していた彼女の心中は少しばかり恐慌状態に陥った。 (どうしよう……! こんな偉いひと、わたしがここで何か対応を間違ったら、甲斐にとって良くないことになっちゃうんじゃ…。そうしたら、お館様やみんなに迷惑がかかる) さあっとの全身の血の気が下りる。 ともかく友好的ににこやかに接しなければならない、と何とかおのれに言い聞かせるものの、おそるおそる彼と目を合わせて、瞬間的に後悔した。 彼は、刃物のように鋭い目つきをしていた。 鎧を着ていなくともわかる、鍛え抜かれた武将の体躯。すらりとした長身に、隙のない身のこなし。釣り上がったまなじりに、しわをきざむ眉根、それらすべてにいわくいいがたい迫力が満ちていた。 きわめて簡単にいえば、あまりにも迫力満点で怖すぎた。 端整な顔立ちをしているだけに余計おそろしい。 (ど、どうし、よう) 苦手なタイプだった。 文句のつけようもなく苦手なタイプだった。 どこがどうとはいえないが、とにかくこの男は苦手だと本能が叫んでいる。 ほぼ万人に人当たりの良い宴会部長どのにはめずらしく、わけもなく初対面からダッシュで逃げたい心地がした。今だとて即行きびすを返して部屋に閉じこもってしまいたいくらいだった。 友好的に? ――無理。 にこやかに? ――無理…! ヘビに睨まれたカエルのごとく固まっていると、男は小さく鼻で笑ったようだった。 「そんなに怯えられても心外だぜ。安心しな、Baby……とって食いやしねえ」 は耳を疑った。 ベイビー? ベイビーと言ったか、この男? 何かやたら流暢にベイビーと。 やはり最高に苦手なタイプの声でもって、ベイビーなどと……! 「何てこたァねえ、ちょっとアンタの面を拝みに来ただけだ。方々で宴会部長って名を聞くんでね、噂の武田の守護妖怪とやらがどんなモンか……」 「っ、しゅ……!?」 守護妖怪!? 相手への苦手意識を横においては驚愕した。 初耳だった。守護妖怪。色々な意味で初耳だった。 「もっと大層な見目を想像してたんだが、意外だな…、アンタとても大妖怪にゃ見えねぇぜ」 ていうか信じないでください……!! 内心はげしくはつっこんだが、おそろしくて口には出せなかった。 ドーベルマンに全身で身構える子猫のような気分。目の前の相手のなにげない一撃だけで、こちらの致命傷となると判然としている。そんなことは信玄や幸村や佐助だって同じことなのに、なぜか彼にだけは警戒せざるをえなかった。 無言で体全体をこわばらせるに、何を思ったか、伊達政宗が一歩近づく。 とたん、びくっと震える彼女の肩。 反対に、すっと彼が二歩ほど下がると、いぶかしげながらホッとする様子。 「…………」 「…………」 あんまりにもわかりやすい子猫の怯えっぷりにドーベルマンはくつくつと笑った。 なにが妖怪だ。MonsterというよりもPetだろう。 一方、ペット認定されたは、いよいよもって限界が近づいていた。 こんなおそろしいもの相手に今まで悲鳴もあげず逃走しないでいられたのは、ひとえに宴会部長としての理性と度胸のたまものだった。しかし、もうそろそろやばい。こわい。なんでこんなにガン見されているのだ。なんで彼は笑っているのだ。こわい。こわすぎる。 「なあ、アンタ――」 伊達政宗は彼女をなだめるつもりで、ほんの軽い気持ちで手を伸ばした。 ところが、その手は空をきった。いっそすがすがしいほど空ぶった。 が派手にザッと後ずさって避けたためである。 「…………」 「…………」 きびしい沈黙ののち、彼は再び手を伸ばした。さきほどより格段に素早い動作だった。やや本気の証拠である。 ところが、これも見事には避けきった。こちらもさきほどよりも格段に動作が素早い。もともと多種多様な宴会芸によりボディコントロールに長けた宴会部長である。自己防衛本能に支配された今、その能力がいかんなく発揮されていた。 宴会部長は必死だった。 そして、奥州筆頭は――少しばかり大人げなかった。 相対するドーベルマンと子猫の間に、目に見えない火花が散ったとき―― 「……なーにやってんの、お二方」 こっそりと伊達政宗監視担当だった戦忍が見るに見かねて水を差した。 くるりと屋根から飛び降りた佐助は、さも今通りかかりましたという風情で首をかしげ、すとんと二人の間に立つ。 第三者介入の効果は劇的だった。 ドーベルマンは気勢をそがれ、子猫は電光石火の勢いで佐助のうしろに隠れ込む。涙目で迷彩柄にしがみつくを、伊達政宗はどこかバツの悪そうな表情で見下ろした。佐助が何か言うよりも早く、「…ハッ。邪魔したな」 と肩をすくめて背を向ける。 天井裏にひそむ配下へ目配せで伊達政宗監視続行を指示した佐助は、さて、と腰のうしろに小さく貼りつくを見やる。 「……お嬢? 大丈夫?」 「は…はい。す、すいません」 我に返ったはすぐに手を離したが、その細い指のかすかな震えを見逃すような忍頭ではなく、「いーから」 と距離をとろうとする手首をつかまえる。そのまま、てきとうに腹のあたりにぽむ、と触れさせると、の肩から少しだけ力が抜ける。 そんな弱々しい様子の宴会部長どのが、よもや心中で (…はっ。いい腹筋…) などと感激しているとは、さすがに思いもよらない佐助である。 「伊達の旦那が、何かした?」 なるべく彼女を刺激しないようにと戦忍がおだやかに尋ねると、宴会部長どのは否定の仕草でふるふると首を振った。 「違うんです。あの方は、特になにも……。ただ、わたしが…驚いて、怖がってしまって……。失礼をしてしまいました」 「あー……。まあ、伊達の旦那の目つきはお世辞にも良いとは言えないからねえ」 いえ、目つきというよりも……、とは思い出すあまり青ざめながら訂正した。 「わたし……ああいうフェロモン大王みたいな男性は……どうしても苦手で」 第三者として見ているぶんには萌えなんですけど…と内心ひそかに付け加えるに、佐助は今度は素で首をかしげた。 (…ふぇろもん大王?) ナニやら意味深な含みのある響きだ、と思った忍頭の直感は、ちなみに決して間違っていない。 うっかり動揺して横文字を口走ってしまったは、まだ知らなかった。 ――今宵、呼ばれている宴に、誰が列席するのか。 そして、実はこの猿飛佐助も自由自在にフェロモン大王に変貌をとげるという、ある意味たれ流しの奥州筆頭よりもタチが悪い事実すらも――宴会部長どのは、まだ知らない。 |