夢の中にて、おとずれる世界がある。 法則性は判明していないが、しばしば元の世界で眠りについたとたん、入れ替わりのようにこちらに呼ばれるようだ。 そして、元の世界の身体が覚醒するころに消えていく。それは幻のように。 一夜限りのおとない。 たどりつく場所も時間も様々なのだが――今回はまた、おもしろい場面にはちあわせたものだと思った。めずらしい光景を見た。 そんなわけで、ひょっこり闇の森にあらわれた白猫は、開口一番おかしそうに言った。 「……髪の毛が食べられてるよ、スランドゥイル?」 ゆびきり 白猫の来訪を素直にうれしいと表現できない性格のスランドゥイルは、いつもどおり少しばかり憂鬱そうに彼女を見やった。 知己の少女はそんな彼にもしごく慣れた様子で、いつもどおり適当なソファにたどりつき、マイペースにくつろいでいる。 これがスランドゥイルとの、昔ながらのいつもどおりの関係である。 つい、と顎を持ち上げて彼の膝の上の幼子を眺めた白猫は、猫らしく笑うように目を細めた。 父親の髪の毛をまぐまぐと口に入れていた彼は、今度は首飾りをつついている。見事な細工にふちどられた大玉の宝石が唾液まみれになる日も遠くない。 「しばらく見ないうちに大きくなったものだね、レゴラスくんも! 君によく似てる」 「……悪戯盛りでまったくかなわぬよ。悪気がないだけに困りものだ……周りがまた甘やかすものだから、これもまたいつまでたっても大人しくならぬ」 「なつかれていてけっこうじゃないか、父上どの。そうして子供をあやしている君も、なかなかいい男だよ」 「よく言う。どれだけ誘ってもなびかぬくせに」 「……君の誘い方は常に唐突で脈来がないから、これは何かの冗談じゃないかと疑われて逃げられても仕方がないと思わないのか」 あさっての方角を眺めながら逃げ口上をさらさら言い流す。 スランドゥイルは「よく言う」ともう一度ため息をついた。 「これではあやつも苦労する」 「……エルロンドは関係ないでしょ?」 「誰とは申しておらぬが」 「レゴラスくーん、おねーさんと遊ぼうかー」 真っ白いしっぽをパタパタさせてレゴラスを誘惑すると、父親の膝の上で金髪をいじくっていた少年はパアアと顔を輝かせた。 危なっかしく膝から飛び降りて、白猫の鎮座するソファへと駆け寄る。 エルフといえども子供の動きはどこか見ていてヒヤヒヤするな、と苦笑しつつ、幼い腕に抱かれた。 (――おや?) レゴラスの腕におさまって毛並みを撫でられたは、少なからず驚いた。 えてして子供というものは、総じてつたなく、危なっかしい。撫で方も乱暴、抱き方も稚拙。猫的には歓迎できた遊び相手ではないのだが。 それなのにこのレゴラスときたら、あくまでやさしく柔らかく、大切な宝物のように抱擁する。 しばらく無邪気に戯れて、は認めざるをえなくなった。 「……スランドゥイル。末恐ろしいよ、この子」 「何?」 「すでに触り方のツボを心得ている」 「ああ……いつも私がおのれにする仕草をそのまま覚えたのだろうよ。確かに子供も猫も、小さいという点では変わらぬ」 「……原因は君か」 するとレゴラスは幼くして、スランドゥイルの妙な手練手管の一部を受け継いだということになる。このままの勢いで成長していくとすると、どんな青年になるものか……。 末恐ろしすぎる。 そんなことを考えていると、くい、と小さな手に顔を向きなおされた。 見れば、レゴラスがぶうとふくれている。 自分の膝の上にいながら別のことに気をとられていて、どうやら面白くなかったらしい。 かわいらしい嫉妬に微笑ましくなって、ふくれ面をぺろりと舐めた。 びっくりする青い目。 父親とよく似た澄んだ瞳に、ああ親子なのだな、と感慨深かった。 「レゴラスくん。お父さんは好き?」 「? はい、ちちうえは大好きです」 「そう…。願わくばそのまま大好きでいてやっておくれね? 君のお父上はとてもさびしがりやだから」 「さびしがりや?」 「君がそばにいてくれないと、さみしくて一人でしくしく泣いてしまうかもしれないよ」 何を子供に吹き込んでいるのだ、と遠くで抗議が聞こえたが黙殺。 レゴラスは教えられた新たな父の一面を鵜呑みにし「ええっ」と顔をゆがめる。父に似ず素直な性格らしい。 ぜったい、ちちうえのそばにいます! そうきっぱり宣言してくれたレゴラスに、良かった 、これで私も安心だ、と笑う。 言葉をあやつる不思議な白猫に、レゴラスは首を傾げた。 「あなたは、いてくれないんですか?」 「……わたし?」 「あなたも、ぼくと父上のそばにいてください」 「レゴラス……」 お願いです、と言って、きゅうとを抱きしめる。 白猫は困ったように耳を伏せた。 どうやら、ずいぶんと気に入られてしまったらしい。 そばにいると答えられないに、レゴラスはますます不安を強くしたようだった。 澄んだ色の瞳を哀しそうにうるませる。 「……どこかに行ってしまうのですか? せっかく会えたばかりなのに」 スランドゥイルに似たきれいな目と子供らしい頬が歪む。 ただでさえが強く出れない造作をしているというのに、そんな顔をされては本当にどうしていいかわからない。 ふわり、と抱擁がゆるまる。 あきらめたのだろうかと睫毛を上げると、青空の瞳にぶつかった。 鼻先が触れ合うほどに顔が近づいて、ぽろりとレゴラスの頬を雫がしたった。 あわてるの背を小さな手のひらで包んで、短くささやく。 「いかないで。そばにいてください……」 「……レゴラス、でも」 「どこにも行かないで」 ずっと、そばにいてください。 白猫はそっとため息をついた。 ずっとこの世界に――それはかつて選びかけた道だった。留まってもいいと思ったことなら幾度もあった。 けれども、そのたびに叶えられず……必ず別離はおとずれた。 とて、離れたくはなかった。それでも。 双眸を閉じて、意識を額に集中した。 今回のような不完全な訪問ではおそらく本来の姿には戻れなくとも、それに準じる形はとれる。常に制限のかかる幻として。 「……ごめんね」 膝の上の重みがなくなるとともに降ってきた声に、レゴラスは顔を上げる。 さきほどまで確かに存在していた白猫はもういない。 代わりに――黒い髪の少女がいた。 びっくりして瞬きをする彼に、は「私だよ」と微笑む。 その声に思い当たって、レゴラスはいっそう目を丸くする。 「おねえさん?」 「そう。名前はというの」 「……」 少女は手を伸ばして、レゴラスの頬に触れた。 柔らかいぬくもりに、涙のあとを指でなぞる。 泣くほど一生懸命に引き止めてくれた子供に少しでも報いようと思ったら、できるかぎり本来の姿に近づくことくらいしか選択肢がなかった。 突然の変身にしばし混乱したレゴラスだったが、子供らしい柔軟な思考で、素早く好きなように納得してしまったらしい。 目線の上になった彼女におそるおそる近づいて、服の端をつかむ。 さすがに戸惑っているらしい様子がかわいくて、は小さな身体を今度は自分から抱きしめた。抱っこのように抱えて、膝の上に乗せる。 白猫のときとは逆の構図。 そのうち順応したレゴラスがぎゅうと抱きついてくるまで時間はかからなかった。 ぽんぽん、と頭をなでると、甘えるようにすり寄ってくる。 小さなレゴラスはあまりにの変身に驚いて、あれほど必死だった帰る帰らないの話は一時どこかへ行ってしまったらしい。 わざわざ蒸し返すこともないも判断して、少女は子供の頭をなで続ける。 気持ちよさそうに目を閉じているレゴラスが、再び顔を歪めて泣くさまは見たくなかったのだ。 (ずっと、そばに……か。――本当に、そうできたら良かったのかもしれないね、レゴラス) 時折金髪を指に絡めて、しなやかな一束に親愛のキスを送った。 今回は元の世界の肉体が眠っている間の、あくまでも一時的なおとずれだった。 白猫の形でいたならば両手の指ほどは足りたはずの時間も、無理に人型になったことで片手ほどに縮まった。 そのことをもちろんは承知していたが、それでもレゴラスに応えるために、偽りの姿では向き合いたくはなかったのだ。 やがて半透明に透けてきた手のひらを確認して、少女は苦笑した。 (やっぱり、この程度しか保たなかったか……) もうそろそろ帰る時間だな、と内心つぶやくと、静寂が満ちていた室内に、見計らったように衣擦れの音が響く。 闇の森の王が、裾を揺らして少女の前にひざまずいた。 「……頃合か」 短い問いに、ひとつ頷く。 スランドゥイルはそっと金色の睫毛を伏せた。 腕の中にいる子供と同じ色。 その瞳も同じ色彩であるのに、深く落ちた陰が見誤らせる。 「スランドゥイルも素直になってみればいいのに」 「子供のように、か? その術ははるか昔に忘れてしまったよ」 「……そうかな。まだ平気だと思うけど」 そんな他愛のないことを話している間にも、時間に比例して透明化は進んでいった。 先の背景の透けた手のひらに「ゾッとしないな」とは笑う。 空気に溶けて消えていく仮初めの身体。 そう、こうしてまた別れはおとずれてしまう。 (ごめんね……、レゴラス) 小さな子供が惜しんでくれた心を忘れまい。 行かないで、と訴える声に答えられたら良かったのだけれど。 さら、と最後に髪をなでた。 どうかこのまま目を開けないで。 「じゃあ……またね」 「――ああ」 静かに見送ってくれる彼に手を振って、いよいよおとずれようとする流れに身を任せた。 身体のひとかけらさえも消えてしまう寸前……子供と目が合った。 の願いも知らぬ小さな子供は確かに両目を開けて、今にも消えようとするを見て、必死に何かを叫んだ。 あの青い瞳いっぱいに、行かないで、と……。 (――そうだね。そうできたら、良かったね) レゴラス、君のこれからの長い長い人生で、 どうかこの出会いと別れが、時間の波にさらわれて薄れてしまいますように。 (二度と会えるかどうかもわからないひとを思うのは、とてもつらいことだから) さようなら。 それでも、願わくは――大きくなった君にもう一度会いたい。 |