笑うなら青空の下で、歌うなら星空の下で、泣くのなら雨の中で。 いつだったか、二人旅の途中、そんなふうには言った。 解せない顔をした相棒へ、彼女はまるで何でもないことのように笑う。 なぜならば、それが一番、他人の記憶に残らないから、と。 空の贈り物 2 ナ・ナル島へと退避したは、ぼんやりと座り込んで空を見上げていた。 赤月帝国では曇り空だったが、ナ・ナル島では雨だった。豪雨とまではいかないが、この天候の中で出歩く者はほとんどなく、それがにはありがたい。 髪の先までぐっしょりと雨に濡れながら、ただ静かに泣き続けた。 眠りの紋章がひどく心配そうに語りかけてくるが、(大丈夫) と答えた。 (つらいっていうだけで泣いてるんじゃないんだよ……本当は、安心したっていうのもある。あんなふうに気を張って、性に合わないことをして、すごく大変だったけど……テッドも、ティルも、わたしも、今、生きてるから。それがうれしい) それでも不思議そうな紋章へ、泣きながら、少し笑う。 (ようやく、ちょっと気が抜ける状況になったってこと。いいことだよ) 傷つくティルを見るのはつらかったし、死を選ぼうとしたテッドは怖かった。そんなことが当たり前のように起こる戦争それ自体も、心からおそろしい。 だからこそ、こんなふうにのんびり泣いていてもかまわない時間というのは、少しも悪くない。 のリラックスした気分が伝わったのか、眠りの紋章はそれ以上は何も言わなかった。すぅっと表出していた紋章の思念が、より奥へと戻っていく感覚。自身の意識と一体化し、静かに安定する。 以前よりもずっと強固になった紋章とのシンパシー、共感――同化。 は喜ぶでも沈むでもなく、やはりと思う。 「……使えば使うほど、か」 吐息だけで小さくつぶやいた、そのときだった。 っばっしゃーん!! 大きな落下音が響きわたり、派手な湯しぶきがの全身にかかる。 幸か不幸か、彼女のほかに人気はないため、目撃者は 一人だった。 ナ・ナルの公衆浴場――女湯に。 少年三人がテレポートで闖入。 「っ、ぶわっ! な、なんだ? お湯!?」 「ちょ、何ここ、よく見えないんだけど。霧?」 「……いや。これはもしかして、湯気では」 驚き、混乱、困惑の気配。 闖入者側も闖入者側なりに予想外の事態であるらしい。 殺気や敵意が皆無なことから、なにより見知った面々であることから、もまた似たような心境だった。ぽかんとして三人を見つめる。 そうこうしているうちに、彼らも先客の存在に気がつく。それが探し求めていた気配とわかり、特に探査役は 「ほれ、やっぱしおれの勘に間違いは…」 と安堵した。 しかし。 目が湯気に慣れるにつれ、あるいは近づくにつれ。 ――双方、完全に沈黙した。 そして。某異世界でもっとも温泉好きな民族出身のは、入浴の際の当然のマナーとして、手ぬぐい等を身体に巻きつけていたりはしなかった。 テッドは赤月帝国の国旗よりも真っ赤になって口をぱくぱくさせ、ルックは目をみはったまま無表情に固まり、当のは…まだあっけにとられている。 仕方なく事態の収拾を担当したのは、比較的冷静なティルだった。 「……。とりあえず湯船に入ってくれ」 「え? ……あ、うん」 「そう、首までつかって。俺が良いと言うまで出ない。いいな。――テッド、ルック。今は何も考えるな。何もするな。目を閉じろ」 「…………」 「…………」 「それでいい」 ひょいとばかりにテッドとルックを両肩に抱え上げたティルは、ざぶざぶと湯船を横切り、のそばも横切り、きわめて迅速に出口へと向かった。 少年とはいえ二人分の重量。…重くないのだろうか。は思わずそんな感想を抱きつつ、ティルの背中を見送る。 「、あと十秒数えたら自由に湯船から出ていい。俺たちは外で待ってるから、本拠地へ戻るときは一声頼む」 「わ…わかった」 「失礼をした。……すまない」 ティルは一度も振り返ることなく、人間二人分の荷物をかつぎ、そう言い残して立ち去った。 白濁色の温泉に首までつかっていたは、言われたとおりに十を数え――十秒後に、ぶくぶくと湯船に沈没した。 齢五十もはるか昔に超えた身で今さらかもしれないショックをやりすごしたあと、要するにあの三人はこちらの予想を超えて真剣に心配してくれたのだ、とは結論づけた。 彼らはおそらく興味本位ではなく。真摯に。 ……それは、たぶん、人と深く関わろうとしない自分にとって、とてもありがたいことなのだ、と。 そう、真摯に心配した結果、女湯へ不法侵入したのだとしても――。 ひとまず見事に涙はひっこんだ。 温泉から上がったは、不思議とこみあげてくる笑いをこらえながら、彼らの姿を探す。 降り続く雨の中、ほどなく、それは見つかった。 公衆浴場からの階段を下り、やや脇の踊り場付近に、赤と青と緑の目立つ色彩の三人組。 「。……逃げなかったのか」 「ティルが来いって言ったくせに」 何事もなかったかのようにに声をかけたのは、濡れた胴着を肩にひっかけて薄着になったティルだった。彼があまりにも平然としているので、つられたも平然と返すと、そうだな、と端整な顔がかすかに笑う。 ――しかし、よくよく見れば、ティルの頬はわずかに赤く、眉尻は困ったように少し下がっていた。(…しまった) ともまた真っ赤になってうつむく。彼のポーカー・フェイスの裏側に気づかなければ、こちらも何食わぬ顔でごまかしていられたのに。 「……もう一度言うが、すまなかった。悪気はなかった」 「べ、別に……。もう、いい。わかってるから」 「ルックとテッドも、同じくそんなつもりではなかった」 「……うん。わかってる」 会話の流れで、ティルとの視線が、自然といまだ口を開かない青と緑のほうへ向く。 ――テッドは真下の地面を凝視し、ルックは斜め上空を睨みつけていた。 紳士的でない二人に、ティルはため息をつきたい心境で 「テッド、ルック」 と促す。 「悪かったと思うのなら、謝罪を」 「…………」 「…………」 すると、テッドはもごもご、ルックはぶつぶつと、短く何事かを口にした。 雨音の中、それは非常に聞き取りづらかったが――それぞれ 『悪かった』『ごめん』 と、おそらくそんな内容だった。 彼らもまた、よくよく見れば、耳や首がナ・ナルの果実のように赤い。 どうしても我慢できなくなったは、ふっと吹き出してしまった。 ああ、もう、笑わずにはいられない。 「ふふっ……。君たちときたら……」 「……?」 「ねえ、ティル。戻ろうか。ここは泣くのには向いてるけど、長い話をするのには向かない」 全身にまとわりつくような霧雨。 けれど、心は羽のように軽く、軽やかだった。 なぜだろう。何一つ問題が解決したわけではないのに。 「話すよ。――全部」 それは、この世界に生きて初めての、この決意のせいかもしれなかった。 本拠地、トランの湖城へと戻り、再度お湯を使って身支度を整えた彼らは、夜も半ば、最上階の軍主の部屋へと集まっていた。 もっとも広く、もっとも人気から遠いという点での選出だったが、やティルがそれぞれ夜食やツマミ、地酒を持ち寄ったため、腹ごなしという点でも事欠かない。 熱をぶりかえしそうなテッドをせめて寝台に寝転がらせたは、「何から話そうか…」 と穏やかに言った。 「……ふん、ずいぶんもったいぶるじゃないか。そんなに大層な話なのかい」 「大層かどうかは。ただ、長い話になるかと……。……ああ、いや、でも。大したことはない、かな。…そうだね、わたしが大げさだったかもしれない」 卵かゆのレンゲをかじりながら 「で? 始めっから話せ」 と焦れるテッド。 よくもお前おれにまで何十年も隠してやがったな、という不満が彼の全身から見て取れるが、自分の胸に手を当てて振り返れ、と隣で無言のプレッシャーを送ってくるティルがおそろしくて表立っては何も言えない模様である。 すでに覚悟を決め終えているは、のんびりと告白した。 「ええとね……実は、わたしの生まれは、こことは違う別の世界なんだ」 その言葉が彼らの頭に浸透するまで、数秒の時間が必要だった。 しかし、まだまだ序盤にすぎない部分なので、彼女はさくさく先をつづける。 「地球という惑星の、日本という島国で、学生としてかなり平和に暮らしてたんだけど、突然の交通事故で死んじゃって。ちょうど18歳のころだった。……今思えば、そのとき、眠りの紋章に選ばれて、こっちの世界に来たんだと思う……」 話しながら、果たして展開に着いてこられるだろうかと、ちらりとティルを見ると、「続けて。質問はあとにする」 と落ち着いた声が応じてくれたので、ひとまずここは先へ進むことにする。 「こちらの世界に来たとき、わたしはなぜか3歳くらいの子どもの姿になってたから……偶然拾ってくれた忍の里で、えーと、15年くらい? そのくらいは忍として過ごしたんだ。ついに紋章に見つかって宿しちゃってからは、すぐに里を出て旅暮らしになったけど。――テッドに会ったのは、そのころだったね」 「……お前…」 「それからは、テッドも大体知ってると思う。わたしの紋章は、特にハルモニアのほしがるものだから、ずっと旅を続けてきた」 真の紋章を鎮静し、預かることを可能にする眠りの紋章の宿主。 それは、紋章を集めたがるハルモニアにとって、垂涎の道具だった。 「ところが、眠りの紋章は……今のところ、わたし以外に宿らない。というか、宿れない。紋章の要求する適正と素質を持つ人間が、異世界の、それも元死人の、わたしくらいしかいないんだって」 の前髪に隠れた額には、そのハルモニア垂涎の紋章が宿る。ティルたちは目を細めて彼女の額を見るが、中でもテッドは 「…おい、待て」 と眉をひそめた。 「お前の紋章……。元からそんな色だったか?」 はおや、と目を軽く見開いた。「よく気づいたね、テッド」 苦笑する。 「わたしも最近ようやく確信してきたところなんだ。……どうやら、わたしと眠りの紋章は、そのうち同化するらしい。紋章の境目が、もうほとんどわからないでしょう? 最終的には、完全にわからなくなるっぽい」 「同化……!?」 「もう半分以上なりかけてる。あとは基本的に時間の問題。ただし、使えば使うほど加速する傾向にあるみたいで。……いいことなのか悪いことなのか、どんどん制御がやりやすくなって、紋章の意識も近くなってる。魔力全般ウナギのぼり、自動回復も筋金入りに」 使えば使うほど――その言葉の意味に気がついたテッドとティルが、はっと息を飲む。 一方、紋章と同化するという言葉に、顔を青ざめさせて反応したのはルックだった。 そんな三人に、うん、とは頷いた。 「しょうがないよ。わたしが選んでこうなったんだから。ここまで来ると、たぶん封印もできないし、次の人間に継承してお役御免ともいかないんだろうと思う」 どうしてもテッドを死なせたくなくて盛大に紋章の力を使い、もともと進んでいた同化を早めた。もはやと紋章の一体化は後戻りできないところにまで来ている。……純粋な人間とは、もう呼べないのかもしれないと、ふと思うこともある。 実は考えてもまったくしようのないことなので、あまり考え込まないようにしてもいるのだが。 「――大体こんなところかな。……話してみれば、そんなに長くもなかったね」 結果的に、誰一人としてを嘘つき呼ばわりする者はいなかったが、にわかに信じがたい話ではあった。 異世界の人間。もとは終わった命。紋章との同化。 そして、次世代の望めない継承。 うつむいて奥歯を噛みしめていたルックは、「…だから何?」 と突き放すように低く訊いた。 の気持ちがわかるとは、口が裂けても言えなかったから。 「だから? 君はそんな下らないことで泣いてたってわけ?」 突然語調の鋭くなったルックに首を傾げつつ、は 「いや、違うよ」 とあっさりと否定する。 「そうだ。それを話してなかったね。わたしが泣いてたのは……その、たまに来る、発作で」 「発作? 何、発作的に泣きたくなるとでも?」 「そう、それ。長いこと緊張してたあとに、ふっと気を抜くとね、たまにある。今回もテッドのことで一区切りついたから、その影響だと思う。一時的に、すごく涙もろくなるだけなんだけど」 「……バカバカしい」 ふんと鼻を鳴らしたルックは、ぷいとそっぽを向いた。 一見、怒り出したかのような仕草だが、なぜかやティルの目には、彼がホッとしたようにも見えた。いうなれば、安堵のあまり照れ隠しに不機嫌さをアピールしているような。 しかし、それを指摘してみたところで正直に打ち明けるルックとも思えなかったため、もティルも丁重に見なかったふりをした。 迅速に話を変えるべく、彼女は寝台の上の相棒へ 「テッドは何か質問は?」 と声をかける。 途中から卵かゆを食べる手も止まっていたテッドは、何か苦いものを含んだような目で、ゆるゆると顔を上げた。 その様子を見ただけで、彼がの告げた事実によりも繊細に傷ついていることがわかる。……だから叶うなら言いたくなかったんだ、と胸中のみではごちた。 テッドはぎっと相棒を睨みつける。 は少しばかり困って、ぱちぱちと瞬きをした。 「お前……もう他に、おれに隠してることはないんだろうな」 「……うーん。……たぶん」 「たぶんかよ……!」 「だってさ。テッドだって、この三百年の中でわたしに言ってないことは山ほどあるでしょ? 今まで起こったことすべてを、みーんな正しく説明することなんて、たぶんできないでしょ? 具体的に訊かれたら具体的に答えられるけど、いくら隠すつもりがなくても、人生全部話しきるのはむずかしい。そもそも覚えてないことも多いし」 「覚えてないってこたないだろ、こんなふうに大切なこと!」 ううむとうなったは、しばしの黙考ののち、逆に尋ねた。 今度はテッドが身構える。この相棒がこんな目をしたとき、それは決して油断してはならないときだと今までの経験が教えている。 「じゃあ――テッドは覚えてる? わたしと君が初めて会ったのは、太陽暦何年?」 「……う。で、でも、そんなの」 「わたしと君がはぐれた最初のきっかけの戦争は、ファレナの何戦争?」 「……うっ。で、でも」 「ていうか君、厳密にいうと今何歳?」 「……ううっ……!」 警戒むなしくテッドは盛大に頭を抱えた。 わからないのかよ…と呆れた視線を向けるのは、まだ色々なことを鮮明に覚えている若年組二人である。 「ほーら。これでもテッドくんはわたしのもの覚えが悪いって責めるわけだ?」 「……う、うるせー。いちいち覚えてられっか、ンな昔のことなんて!」 いつの間にか論点が 『もの覚え』 にすりかわっていることに気がつかない童顔およそ300歳。 そうか、つまりこんなふうにしてテッドはに煙に巻かれてきたのか…とティルとルックは二人旅時代を垣間見る思いだった。 すがすがしいほど見事にテッドを丸め込んだは、「ティルは何かある?」 と最後に彼へ話を振る。 実のところ、がもっとも読めないのはティルだった。特に、最近の彼は彼女の予想を軽くぶっちぎる。一体どんな質問をされるだろうかと、こっそり身構えていると、「質問はないが、一つだけ確認したい」 と彼は言った。 ごく、とは小さく息を飲む。 解放軍軍主としての彼ならば柔和に微笑む場面でも、今のティルはあまり笑わない。貴族然と対応されるより余程いいと思うものの、こういうときは少しばかり心臓に悪い。 ややあって、ティルが確認したのは、言葉通り、ただ一つだった。 「――次は、もう一人で泣かずに済むんだな?」 はきょとんとした。 一瞬後、ごまかす間もなく、ぱっと目元が赤く染まる。 …予想外だった。やっぱり彼は、こちらの想定をぶっちぎる。 「ティルは……そういうことを、さらっと言うんだから、ときどき困る」 「」 「努力するよ。……性格的に向かないような気がするんだけどね…やってみる」 「ああ。そうしてくれ」 「……その代わり、君も一人で無茶ばっかりしないように。事前にわたしを呼ぶこと。テッドみたいに話がこじれてから泣きつくのはナシにして」 「努力しよう」 どさくさまぎれにの示した交換条件に、めずらしくティルははにかむように微笑った。 …というかだな、とテッドが苦々しく口を挟む。 「頼むからお前ら二人、もうちっと穏便な性格になってくれ。傍で見てるおれの気が休まらん」 「……それはどの口が言うのかなテッド」 「まるで自分は穏便な性格だとでも言わんばかりだな…」 両頬をぎりぎり引っぱられて 「ぃたいいたいいたい…!」 と涙目になる病人は無視し、ルックは大きなため息をついて、もう用はないとばかりに風をまとわせた。 立ち去ろうとする風の魔法使いへ、「ルック」 との声がかかる。 「……何」 まさか彼が振り返ってくれるとは思わなかっただったが、現に緑衣の少年は憮然としてそこに留まっている。ただお礼だけを述べようとした予定を変更して、笑いながら言った。 「ありがとう。ルックも泣きたいときは遠慮なく来てね」 「…………!!」 色々と見透かしているのかもしれないの台詞に、瞬間的にルックの理性がぶち切れた。たちまち、ごうっと動いた空気が、うなりを上げて室内に炸裂する。――手加減なしの “切り裂き” だった。 あとには、もうすっかり彼の姿はない。 「一番性格的に向いてないのはルックなのかもね……」 「同感。ルックだろうな」 「っ…ていうかお前らホント心臓に悪い……!」 あわてずさわがず土の紋章で自分たちを防御したティルと、真の紋章結界で室内を保護したが、至極のどかに言葉を交わす。 結果的に、何の被害もなかったものの――おれはこの先、本当に生身のままやっていけるのだろうか…? と元祖無茶の大御所は一人ひそかに涙した。 笑うなら青空の下で、歌うなら星空の下で、泣くのなら雨の中で。 改め、泣くのなら――仲間のもとで。 無理難題ともいえる暗黙の約束は、その後、意外と守られることとなる。 |