目が覚めてから三日、の体力はどんどん回復していった。 それというのも、覚醒してから初めて摂った食事で、腕を上げ続けることに疲れて雑炊のレンゲをボトリと落としてしまった苦い経験から彼女自身が奮起したことによる。 武闘派で硬派な村神俊也お手製の、おいしい雑炊だった。 ごく一部といえども食べられない部分を作ってしまった自分に、ははげしく後悔したのである。食べ物の恨みはおそろしい。 というわけで現在。空目宅のリビングには、せっせと筋トレに励むと、黙々と読書に励む空目と、相変わらず壁に同化しかかっているあやめがいた。 今日は大迫歩由実の葬儀があると聞いた。 黒服からの要請を受けたのは、その日の夜のことである。 16.名誉の負傷 黒服に存在を知られると不味いは、黒服の車に空目とあやめが二人で乗って行くところを、二階の窓からこっそり眺めることしかできなかった。 事前にかかってきた電話説明によれば、『奈良梨取考』を印刷した人間がわかったらしい。今のところもっとも『協力者』として容疑がある。 ――大迫水方。 それを通話を切ったあとの空目から聞いたは、やっぱりという思いがした。外れてもいい勘でしかなかったが、きっとそうだろうと思っていた。 水方氏は機関によって身柄を確保されてしまうらしい。 何かあったら連絡する、と言い残されたは、誰もいない空目宅のリビングルームでひたすら待機をすることになった。 静寂のあまり、カッチコッチと時計の音が大きく響いている。 (……大丈夫かな、みんな) ふと心配になりながらも、気を紛らわせるために台所に立った。彼らがお腹をすかせて帰ってくるかもしれないことだし、何か軽い食事でも下ごしらえしておこうかと思ったのだ。 が泊まるようになってからバリエーションの増えた冷蔵庫内を見回しながら、浅漬けでも作ろうとキュウリを取り出し―― そのとき、携帯電話のバイブが鳴った。 メール着信だった。送信者は空目。 内容は――『日下部が水方から例の本を受け取った可能性が高い。現在、行方が知れない。近藤を捜しに向かわせたが、場所の特定が不十分だ。お前も学校へ頼む』 (……り、稜子ちゃんが……!?) は顔色を青ざめさせた。 ショックだった。自分の数少ないまともな友人の代表格ともいえる、あの稜子が、あんな不気味で奇っ怪なモノにつかまってしまったという。 すぐにメールを返信し、玄関から靴を履いて飛び出した。 この三日、体力回復に励んで良かったと心から思った。むしろやりすぎてしまったかと心配したほどだったが、こういうときに役に立つならば上等だ。 「あんのクソじじい……!」 稜子ちゃんの首までくくったら根元からガソリンかけて燃やしてやる! 固く心に誓って、全力疾走の準備運動。 力強くは羽間の街を駆け出した。 (思い出せ……! あのとき、どこで首吊りの木を見た?) 助走を使って軽々と塀を乗り越え、学院の敷地内に侵入したは、焦る気持ちをおさえながら必死に記憶をさぐっていた。 夜の学校は暗鬱な空気をまとって、時折吹き付ける風が木々からざわめきにも似た雑音をひねり出す。肌をなでていく生温かい微風。 思い出そうとすればするほど記憶が遠ざかっていく気がした。 は思い切って目を閉じた。 思い出せないならば新しく感じ取ればいい。 (――…どこ……?) 両目から力を抜いて、耳をすました。 ざあっと吹き抜けていく風が髪の毛を乱していっても気にならない。 首くくりの木には大きなたくさんの実が生っている。 甘い甘い匂いが一帯の空気を支配している。 始終、きしむ縄の音が波紋のように広がって、葉のざわめきとともに呼ぶ声が…… ――で、おいで…… ぎぃ……ぎぃ…… (……見つけた!) くるっと踵を返して、感じ取った方向へと走り出す。 迷っている暇もなく迷いようもなく、強い強い引力で呼ぶ声がした。 「見境がなくて助かった……ね、っと!」 本来ならば迂回しなければならない1メートル余りの花壇を、走り幅跳びの要領で勢いよく飛び越える。獣のように全身で衝撃を殺して、そのままのスピードで図書館へと向かう。 ねじれた巨木は図書館の近く、敷地ギリギリの場所にある。 は携帯電話を取り出して、短縮ボタンを押した。 コール2回で抑揚に乏しい少年の声が返り、その声に現状を伝えると「すぐ行く。むやみに近寄るな」と短く通話が切れる。 「……近寄るなって言われてもね……」 ブツン。ツー、ツー。 打ち切られた電話を見下ろしながらは困ったように頬を掻いた。 巨木の枝がざわざわと鳴る。ねじれた幹はひどく醜い。 現実にはありえない木は現実にはありえない沼のほとりに生えている。 ……もうけっこう近くまで来ちゃったんだよね。 しまった、と後悔しながら立ち止まる。断じてわざとではない。全力疾走してきた勢いで、つい走りこんでしまったのだ。 じゃあとりあえず離れておこうと思い、そそくさと巨木に背を向ける。 危ない危ない。また眠ってしまったら今度こそ役立たず決定だ。 ――要は、ここに稜子が近づこうとしたら止めればいいのだ。 大迫栄一郎に乗っ取られかかっている稜子だ。いざとなったら力づくでも……。 ひそかに覚悟を固めているうちにも、ずっと実がを呼んでいた。 おいで、おいで、と。 その気はないと言っているのに非常にしつこい。 一人我慢大会のように忍耐の字でがんばっていると、待ちに待っていた空目が到着した。後ろにあやめと俊也を連れている。 空目は開口一番に「どこだ?」と辺りを見回した。 「あそこ。――あ、そっか、見えないか。あやめちゃんならわかる?」 「……あ……。は、はい……」 「うん、相変わらずイヤーな感じだよね……」 奇怪な巨木に怯えるような眼差しを向ける神隠しの少女の肩をぽんとたたく。 はあやめが細かく震えていることに気がついた。大丈夫? と尋ねても弱々しい首肯が返るだけだが、とてその気持ちは痛いほどにわかった。 (こう、気配がねちこいし押し付けがましいし……。……まずい、ねむい……) 身を守る『壁』が反応しかける。それは、それほどにプレッシャーの強い光景だった。 頭を振るって、何とか眠気を振り払う。 気をしっかり持つ必要があった。 「」 「平気、根性で何とかしてみる。…それより、空目くんたちに見えないなら、どうしようか」 「そうだな……。――あやめ、できるか?」 こくん、と小さな少女は頷いた。 と俊也が何をするのだろうと見守っていると、あやめは巨木に近づき、すぅっと息を吸った。えんじ色の洋服に包まれた両腕を広げる。 澄んだ声が響きわたった。 少女の力ある言葉と独特の旋律が空間に作用する。 歌に宿る力を感じ取って、が「すごい…」と声をもらした。 言葉の連なりが音に乗って歌になる。 繊細な糸紡ぎが複雑な織物へと変化するように。 (……これが) ―――籠で小鳥を飼いましょう。 霞で編んだ、鳥の籠。 黄昏と共に霞は消える。小鳥は消える。籠の中…… (これが、あやめちゃんの歌……) 歌詞の一つ一つに少女の異質な魔力を感じる。神隠しとしての力なのだろう。 聞き惚れながらも、この歌に意識を集中すると眠気が強くなることに気がついた。 「……あ……、っ」 歌にあてられて、立ちくらみが起こった。 何とか踏みとどまって顔を上げると、そばにいたはずの俊也の姿がなかった。 ぎょっとしかけるが、空目の顔を見て最初からそういう打ち合わせなのだと悟る。 ――神隠しの力で俊也を隠しておくつもりなのだ。 そうとわかれば、それよりも気になることがあった。 どういう作用か知らないが、先ほどからにはあやめの歌の、音の流れが『視え』る。 正確には音に乗った魔力の流れが見えるのだ。波紋のように広がっていく波が――に触れようとして少し手前ですべて跳ね返される。 きれいに反射されて、あやめの歌の魔力が届かない。 「……壁……」 そうか、これだ、と直感した。 見えない壁の存在をこんなふうに実感するとは思わなかった。 確かにぐるりとの周囲を守っている。 魔力を帯びたものすべてから隔絶させる透明なバリアー。 あやめの短い呪歌は隣の俊也だけをきれいに隠す。 「どうした、」 「ううん、何でもない……。やっぱり私にはこの歌、効かないみたいだね」 「お前の『壁』の性質を知ったときから予測はしていた。今は自分の身を守ることだけを考えて俺から離れるな。分散すると村神が守りにくい」 「わかった。……村神くんが物理攻撃担当なんだね?」 「ああ、俺たちが魔術師に対抗するには、」 空目の言葉が途中で途切れる。あやめが警戒をこめて彼の袖を引いたのだ。 視線の先に、こちらへと歩いてくる人影があった。 ――来るぞ。 低い声に、うんと頷く。 首くくりの巨木に向かって近づいてくる小柄な少女が、時間とともにはっきりと見えてくる。 すでに覚悟をしていても、それが見知った顔であることには眉をしかめた。 「……魔王様……、ちゃん」 そこには切なそうな表情の日下部稜子が立っていた。 そこから先は空目恭一風に言うならばまったくの「茶番」だった。 小崎摩津方こと大迫栄一郎の操る稜子が稜子のふりをして「実を取らせて」と哀願するも、基本的に泣き落としの通用しない空目が「要らぬ演技」だと見抜く。 果たして小崎摩津方はあっさりと化けの皮をはがした。 (……“魔道士”ねえ。魔女といい陰之くんといい、変な人ばっかりだよ……) 空目と摩津方の会話を峠の地蔵のごとく聞き流しながらは思う。 彼らの価値観はよくわからない。しかし彼らはその価値観のもと忠実に動いているので、彼ら自身の言動も、自然とよくわからない。 ――摩津方は蘇りたいのだという。 血の繋がった子も孫も利用しつくして蘇りの儀式を作り、現実に実行している。そうして失敗してみても今度は特別な適正のある稜子を狙う。 (……ねちこい、しつこい、迷惑! ……うわあ、あの木どおりだ) ペットは飼い主に似るものらしいが魔術も作り主に似るものなのだろうか。 少なくとも摩津方とはお友達になれそうにないとは確信した。 (結局は魔術師としての位階だの素養だので他人を大きく判断してるわけだよね……) そういう考え方は好きではない。 そんなもので計られてたまるものかと思う。 そもそも力比べだとしたって、形式や位階で魔力が扱えるなんて寝言を本気で信じている時点から愚の骨頂だ――と、そこまで考えて、は自分の思考に絶句した。 ……今、何を考えた? (形式や位階で使える力なんてごく一部だ、って……) 絶句する。 (……あれ? ま、待て待てワタシ!) ――なんで私はそんなことを知っている? しかし、確かにこう思ったのだ。 ふと『呪文も魔方陣も位階もなくても使える力はあるのに』と―― なぜ、そんなことを思ったのかわからない。 知識というよりはもっと深く、経験で知っているような気持ちが湧き上がっていた。 さあっと血の気が下りた。 空目に記憶をなくしているかもしれないと言われていたことを思い出す。 今の今まで深く考えていなかったそれを突きつけられた心地がした。 さすがにショックを受けていただったが、しかし俊也が勢いよく動いたことにより、ハッと我に返る。今はそんな場合ではないと思い直した。 見れば、稜子が俊也に押し倒されていた。 つまり摩津方が地面に押しつぶされているわけだが、外見はれっきとした稜子であるので妙な光景であった。さぞかし村神くんはやりにくかろうとはハラハラする。 そのうち追いつめられたはずの摩津方は、いけしゃあしゃあととんでもないことを言い出した。稜子の身体を摩津方として提供すれば空目の『願い』に全面的に協力する、と。 ファイナルアンサー時の某司会者のごとく黙考した空目だったが、さんざん時間をかけて考えたわりに「お前では話にならない」と、あっさりと断る。 しかし、は彼の答えなど最初から心配していなかった。それよりも摩津方の妙に余裕ぶった表情が気に食わなかった。まるで何かを企んでいるかのような目つき。 (気をつけて、村神くん……) 何しろ相手はねちこい・しつこい・迷惑と三拍子そろった前科者の横暴老人だ。 はひそかに援護の用意をした。 おそらく摩津方が仕掛けてくれとすれば、姿勢が変わり立ち上がった瞬間―― 「……村神!」 「村神くん危ない!」 空目とともに警告に叫ぶ。 呪文のような何かをつぶやいた摩津方に向かって、とっさには、手の中に持っていたものを投げつけた。 これで一瞬でも隙ができればいい。 (……当たれ!) 稜子の頚動脈を絞め落とそうとした俊也の手が、その細い喉に触れるより早く。 それは見事に回転しながら威力を増して、風を切って進み―― 小崎摩津方の左頬に、緑色の細長い物体がぶち当たった。 ――キュウリだった。 「………っ!?」 そのときの摩津方の表情を俊也は忘れられない。 不可解な狂気に取り付かれた老人の顔が純粋な驚愕に彩られ、「なぜここにキュウリが!」とでも言いたげな絶句具合には思わず共感しそうになった。 よもや敵である摩津方に対してこのような感情を覚えるとは、と思いつつ俊也は頚動脈を絞めて稜子の身体を気絶させた。 ぐったりと倒れる彼女を抱え上げる。 「だ、大丈夫だった? 村神くん」 「…………。……ああ、助かった」 「お礼ならキュウリに言っておくれ」 俊也に駆け寄ってきたは足元に転がっていた一本のキュウリを拾い上げた。見事に摩津方の隙をついたキュウリはわずかに割れ目が入り、名誉の負傷をしていた。 「ちょうど稜子ちゃんがいなくなったって連絡もらったときに握ってたから、そのまま持って来ちゃったんだよね……」 それでとっさに投げつけたらしい。 野菜にどつかれた稜子の頬に大した怪我はない。しかし直撃シーンを見るかぎりダメージは強そうだった。むしろ精神攻撃に近い。 「細長く微妙に曲がった形状……。遠投に向くとも思えないが、よく当たったな」 「それはそれ、気合で。」 感心の仕方を間違っている空目と、答えになってない答えを返すを眺めながら、俊也はため息をついた。ひとまず終わったのだ。こんな呑気な会話をできるくらいなのだから終わったのだろう。終わったに違いない。 ――そのあと、は黒服に見つからないうちに行きのように塀を飛び越えて学校を脱出した。ジョギング速度で空目宅に戻ると、時計は深夜0時の少し前を指していた。 空目ともども疲れ果てていたはさっさと布団にもぐりこみ、就寝した。 翌朝の食事にキュウリの浅漬けが添えてあったのは蛇足である。 |