闇の中で小さな男の子が笑う。 その存在を知らしめるものは声だけで、予想される幼い身体は影も形も見当たらない。 弾むような声音は、ひどく嬉しそうに甲高く響く。 ――いっしょにいこう、おねえさん。いっしょにいこうよ… いやいや。行かないから。おねーさん学校があるんだわ。 は内心でつっこみつつ、決して反応を返さないようにつとめた。 なぜなら、これはアレだ。うかつに返事をしたらもっと付きまとわれるっていうタイプだ多分。ストーカーと一緒でまともに相手にしていたら身がもたない。 ――ねえ、ねえ…。 しかし少年はシカトにもくじけず、健気に呼び続けている。 これはもしかしてもしかしなくとも我慢比べになりそうだった。 正体不明の声だけ少年対シカト戦法の。舞台は夢の中。根負けしたほうが負け! 「………………寝た気がしねえ…」 覚醒したベッドの上で仰向けのまま、ぼそりとつぶやいた。 たっぷり7時間は睡眠時間にあてたはずなのに、ああ、朝日が目にしみるのはなぜだ。 19.不可思議な忠告 空目くーん。なんでか昨日の美少年が夢に出てきちゃったよー。 おはようのあいさつもそこそこに、がドラえもんを呼ぶのび太くん口調でそう切り出すと、空目はとたんに目つきを険しくした。眉目秀麗がいつもにまして台無しである。 「夢に出てきた? ――姿が見えたのか。内容は」 「ううん、別に姿は見えてない。昨日みたいに声かけられただけ」 「……それでなぜ容姿の美醜がわかる」 「ふっ、それはもちろん声で」 私の勘が告げている、あれは絶対に将来有望だ。 ゆるぎなく断言するに、下らないとでも言わんばかりの態度になった空目が視線を手持ちの本に戻す。 まったくノリが悪いんだからとぼやきながら、すっかり彼の無愛想に慣れてしまったは、口で言うほどに気にしたそぶりもない。 時刻は1時間目の授業中にあたる、文芸部の部室である。 たまたま授業を登録していなかったと空目がそれぞれ暇をつぶすべく部室へ集まると、自然とその話題は昨日の一件についてになった。 「――しかし、コックリさん、かあ……。いやあ、なつかしいね」 日下部稜子、近藤武巳を含む計5名が学院から厳重注意を受けたのは、ほんの今朝のことだ。まぎれもなく昨日、がひそかに目撃してしまった騒ぎの処断である。 武巳と稜子に聞いたところによると、つまり彼らは放課後の空き教室を使い、仲間内数人でなんとコックリさんをやっていたらしい。 あの、10円玉を使用してハイだのイイエだの答えさせる、あのコックリさん。 神道というわけでもなかろうになぜか鳥居のマークを描いたりする、あのコックリさんだ。 「エンジェルさんだとかお稲荷様だとか色々あったけど、あれって結局やること変わらないんだよねー。それに効果もたいして変わんないの」 「――効果。くわしくは?」 いつの間にか読書に戻っていたはずの空目が再びの話に関心を向けていた。 彼はこういった分野におそろしく造詣が深いが、ほど日常的に関わっているわけではないため、実際の経験的知識に欠けていることが多い。そしてそれを空目自身も自覚しており、そのぶん彼と彼女はよくマニアックな情報交換をすることがあった。 たとえばコックリさんの話ならば、 空目がその起源が降霊及び交霊に使用される技術の一つであることや、さかのぼれば歴史は紀元前にまでなる古来よりのものであること、他に類似した占いのこと、きわめつけにコックリさんが不思議に思える仕組みのことなどを話し、 は主に自分の経験談から、実際にコックリさんによって『彼ら』の類いが呼び寄せられてしまうことや、それがたいてい中途半端だったりすること、まれに本格的にとりつかれてしまうことなどをしみじみと述懐する。 「まあ君の言うとおり『気のせい』の入る余地は充分にあると思うよ。みんな過敏になってビクビクしながら神経を集中させて、何か起こるかもしれない、いいやきっと起こっちゃうんだ…と、心のどこかで期待してるところもあるわけだから。コックリさん騒ぎにはバッタもんも多い。ただ意外に本物もある、と。――参考になった?」 「多少、知識の補足にはなったな」 教えがいのない感想を述べた空目は、「最後に訊きたい」と静かに言った。 「昨日の騒ぎをお前は『本物』だと思うか?」 「……やっぱり君は答えにくいことも平気で訊くね」 「この場合、気にしたところで変わらないからな」 冴え冴えとした返答に苦笑して、は知らずのうちに声をひそめた。 あの強烈な気配、夢にまであらわれる干渉力。生半可な『彼ら』ではない。 「――多分、このままじゃ終わらない」 何もなければそれに越したことはないけれど、どうにも嫌な予感がする。 空目は無言でわずかに眉を寄せた。 えてして嫌な予感ほど高確率で的中してしまうように、果たしての言葉は、図らずして真実となる。それもその日のうちに。 昼休み過ぎの6限目、校舎の5階からある1人の女子生徒が転落した。 女子生徒の名前は雪村月子。即死だった。 そして彼女は――昨日のコックリさん騒ぎの5人のうちの1人だったのである。 また、男の子が笑っている。 知るかぎりでは、彼はいつも笑っていた。 嬉しくてたまらないのだとでもいうふうに。 ――いっしょにいこう ――ねえ、いっしょにいこうよ… は応えない。 彼の存在を認める、何らかの動作をしたが最後、おそらく一気に距離をつめられる。 首吊りの木の一件で学んだことだ。 こちらが応える意思を見せれば、それを足がかりに『彼ら』は侵食しようとする。 まだ、この距離でなら『壁』の拒絶反応は起こらないが、返事をした場合の保証はない。 ――ねえ、いっしょに… ――むかえにゆくから 第一「一緒に行こう」と言うわりに行き先を教えないあたりが食わない。 ああ、会話が可能だったならば真っ先に「誘い方がなっとらん!」とつっこむのに。 ナンパの才能に恵まれなかった少年はしつこさだけは一級品らしいのでタチが悪い。 まさしくだだをこねる子供の行動そのままに、いっしょにいこう、むかえにゆくよ、とそれだけを繰り返している。 はひたすら羊を数えつつ徹底的に無視を決め込んだ。 「………………やっぱり寝た気がしねえ」 夢の中で数えた羊の数は7千飛んで85匹。 睡眠時間8時間余りを終えた朝の、げっそりした目覚めだった。 次の日も一限目の授業はとっていなかったは、やはり部室に集まっていた空目と早々に顔を合わせることになった。 無言のまま彼は、昨夜の様子を視線で尋ねてくる。 椅子にかばんを置きながら「もうとうぶん羊は数えたくない…」と端的に答えた。 空目はそれですべて理解したような顔でいつものように読書に戻ろうとしたが、今日は同じく部室で時間をつぶしている亜紀と俊也に「…何が?」と首を傾げられてしまった。 その時点でようやくは、一昨日のコックリさん騒ぎに実は自分も関わっていたことを空目以外の人間に説明していなかったことに気がついた。というよりも、とっくに空目が彼らに説明済みであると思っていたのである。 ――そういえば彼に「他の人に言ってもいい」とは許可していなかった。 空目は以前の約束を忠実に守っていたということだ。 は仕方なく、同じ説明をもう一度することになった。 じっと痛いほど視線を向けてくる亜紀と俊也に向き直り、コホンと咳払い。 「実はね……一昨日の稜子ちゃんたちが参加したっていうコックリさんをやってた教室に、同じころ、私もいたの。ちょっとした不可抗力で」 亜紀の視線が呆れたように細まり、俊也が大きなため息をついた。 ちなみに空目はマイペースに本のページをめくっている。 「……つまり、あんたも参加してたの?」 「ううん、参加はしてない。つい教室で寝過ごして、居合わせちゃっただけ」 「寝過ごした?」 「そう、運動部の人と追いかけっこやって疲れちゃって、とっさに逃げ込んだのがあの教室でさ。見つからないように教卓の中で休憩してたら、ついうっかり眠気がね」 「教卓の中…」 「いや、別にへんな趣味はないよ?」 どんな趣味だ。亜紀と俊也の内心のつっこみがひそかに唱和した。 はコホン、と照れ隠しのように再び咳払いをして、話を進めた。 「まあ、そんなわけで。教卓の中で寝てるうちに、気がついたら同じ教室でコックリさんが始まっちゃってたのよ。でも私が騒ぎに叩き起こされたときは真っ暗で、何が何だかわからなかったけど――。…まさかコックリさんやってるとは思わなかったし」 それはそうだ、というふうに俊也がまたため息をついた。 亜紀も似たような表情をしたが、声は冷静に「それで?」と先を促す。 「それで――まったく事情はわからなかったんだけど、途中でようやく、騒いでる人の中に稜子ちゃんたちがいることに気づいてさ。驚いて声をかけようと思ったところで、アレに話しかけられちゃって、あっという間にダウン寸前。」 「あれ、って……」 「小さな男の子。声だけで姿は見えないやつ。違う世界のお客様。十中八九、生身じゃない」 「――――」 頬をこわばらせる二人に、はそっと目を伏せる。 夏の事件では『協力者』として中途半端なことしかできなかった自分を、彼らはどんなふうに思っているだろう。「うさんくさいヤツ」という評価なら、まだ上出来なのだが。 「……それが稜子たちの言ってた“ そうじさま ”だってこと?」 「正確にはまだわからないけど、可能性はある」 “ そうじさま ”とは稜子たちの参加したコックリさんの名前である。 素早く思考をつなげた亜紀に驚きつつ、少なくともまともに話を聞いてくれることが嬉しくて、小さく微笑った。 その嬉しさに背中を押され、続きを言うことができた。 「私は、強烈な…そういうものを感じると、とたんにダウンしちゃう体質なんだ。夏の首吊りの 一件みたいに、ものすごく眠くなってくる」 「ダウン?」 「うん、自己防衛本能みたいなものらしくて、勝手にどうしようもないくらいに眠くなるの」 「……。――じゃあ、その“ そうじさま ”かもしれないのに話しかけられて、あんたがダウン寸前になったっていうのは、眠くなったってこと……?」 亜紀の言わんとすることを察して、は「声だけでも強烈だった」と頷いた。 それは先の事件並みの怪異が、今回の件に関わっている高い可能性を示唆していた。 「ここで最初の話に戻るんだけどね。私がとうぶん羊を数えたくないって言ったのは、コックリさんの一件からずっと、その男の子が……毎晩、夢の中にあらわれるからなんだな」 おかげで寝不足なんですよ、と冗談めかしてぼやくの言葉を理解した亜紀と俊也が、それぞれ深刻そうに眉根を寄せた。 「それは、まさか感染――…」 苦しげに言いかけた俊也を、それまで黙っていた空目が「可能性は低い」と遮った。 可能性がないとは言わないところが彼らしいとはひそかに笑う。 「問題の儀式の折、は自己防衛本能に従って深く眠り込んでいる。そのため騒ぎに接触できなかったほどだ。寸前で守りきったと考えるのが無難だろう。そもそもの話、まだ怪異が関わっていると確定してもいない」 「……でも、恭の字。もしその『男の子』とやらが怪異で“ そうじさま ”だとしたら、それじゃ稜子たちが感染してる可能性がかなりあるってことにならない?」 「ああ、それならば、むしろ感染しないほうが不自然だ」 のように特殊な自己防衛本能もなく、よりも近く儀式に関わってしまった5人の生徒。そして、すでにそのうちの1人は亡くなっているのだ。 不穏な可能性ばかりが考えられて、亜紀や俊也が沈んだ顔を見せる中、は疲労のかげはあるものの普段と大差ない様子で、空目に至ってはまったく普段と大差ない鉄面皮である。 かばんの中から缶ジュースを取り出しながら、はつぶやく。 これは夢の男の子の話なんだけど、と。 「……姿形はぜんぜん見えなくて声だけで話しかけてくるの。言うことは、『いっしょにいこう』と『むかえにいくよ』の二種類くらいで。時間も場所もなし。私が眠ってる間中、ずーっと言い続けてくる」 両手に視線を落として、ふと真顔になった。 にわかに表情に深刻さの増した亜紀と俊也へ、眼差しを上げる。 「多分、一度でもそれに答えちゃったら、引き込まれると思う」 「引き込まれるって……おい、」 「それが、困ったことにそういう強引な感じなんだわ。しつこくて、ぜんぜん遠慮がない。……でも、私にはこれがまだ怪異かどうかもわからないし、必ずしも稜子ちゃんたちまで危険だって決まってもいないと思う。雪村さんの転落死も、コックリさんとは無関係かもしれないわけだし」 我ながら希望的観測だと苦笑する。 毎晩の妙な勧誘は日ごとに執拗になっている。きわめつけがあの干渉度。 頭に直接響くような呼びかけに、ともすれば答えそうになってしまうほど。 「ただ、少なくとも私だけは確実にマークされちゃったみたいだから」 「……本当に確実なのか」 「私もなるべくなら外れててほしいんだけど、経験上かなり確実。大丈夫、だぶん君たちに迷惑はかけない。でもいちおう経過は報告するよ」 毎晩うるさく付きまとわれてすっかり開き直ってしまったがそう言うと、俊也はひどく不愉快そうに目の影を濃くした。この夏、何度もオセロだの将棋だので遊んだよしみか、ありがたいことに彼がの言葉を疑っている様子はない。 …とはいえ、のカード当ての特技を知ってオセロを連戦したこともあるのだから、今さらの話かもしれないが。 少しうつむいて考え込んでいた亜紀が「今のところは自分でどうにかできるってこと?」と、聞きようによっては念をおすように尋ねた。 彼女はやはり付き合いの密度からいっても俊也よりはるかにに懐疑的だった。 冷静に隠されている鋭い視線の裏をはひそかに感じとり、丁重に気づかないふりをする。嬉しくないことに自分はこういう直感ばかり鋭い。 亜紀のような正統派美形に嫌われるのは正直言って残念きわまりないが、彼女の気持ちを考えると無理もないと諦めざるをえないのだろう。いかに理性的な人格であろうとも、まだ大人になりきらない少女では余計に――の立場が面白くないに違いない。 嫉妬を隠し切れないあたり、微笑ましくて嫌いではないのだが。 彼女の問いに同じことを頷きながら、亜紀が聞いたら逆上しそうなことを思う。 「大丈夫。今のところは無視していれば済むことだから」 細心の注意をはらって嫌味にならないように軽く請け負う。 亜紀は「そう、ならいいけどね」とだけ言って、静かに話を打ち切った。俊也も空目も自分の考えに沈み、同じ話題を蒸し返そうとはしない。 (大丈夫、今のところは……) も、そのときまでは確かにそう思っていたのだ。 その日の昼に空目たちが『機関』に呼び出され、怪異の関わりが濃厚とされても、まだ。 ――あの神野陰之が放課後、突如としてあらわれるまでは。 その黒衣の男は相変わらず心臓に悪い現れ方をして、辛気臭い微笑を浮かべていた。 例によって運動部の勧誘係を撒いた放課後、空席の目立つ食堂の一角。 問題の変人は、そこにいた。ブルーのクッションのついた椅子に座り、オフホワイトのテーブルに頬杖をついた姿がまったくもって似合っていない。 一瞬前までの向かい側の席には誰もいなかったのに、突然そこに出現したのだ。 ごくあたりまえのような顔をして、笑いながらを見ている。 「…………ふつうに登場してよ、頼むから」 危うくがぶのみミルクココアを吹き出すところだった。 しかし彼はいっこうに詫びもせず「それに答えるには『普通』の定義から始めなければなるまいね」などと、この場ではものすごくどうでもいいことをほざいている。 神野陰之。自称『蛾』のサイコさんめいた男である。 顔立ちも体躯も端正といってさしつかえのない容姿をしているが、陰鬱とした強烈な雰囲気と見ているだけで身構えたくなる怪しげな微笑みが乙女の好感度をガッツリ下げている。 慣れれば単なる個性的な人間として対することもできなくはないのかもしれないが、はまだその境地には至っていない。 神出鬼没という言葉がぴったりの黒づくめの男は、初めの出会いから何度か気まぐれにの前に現れていた。一体何しに来たんだおまえ、とつっこみたくなるような場合がほとんど…というか、全部がそうだったような気がするのだが、なぜか今回は、少しばかり様子が違うようだった。 「……陰之くん?」 は彼のことはめったにフルネームでは呼ばない。 苗字に名前を続けて呼んだとたん、どんな地獄耳なのか、本人が「呼んだかね」などと出現してしまうからである。徹頭徹尾よくわからん男としかいいようがない。 ちなみにが「陰之くん」と呼ぶのは、ファーストコンタクト時の所業から「エロ之くん」と呼びたくなるのをグッとこらえて言い直すうち、すっかり定着してしまったためである。彼も特に訂正を要求せず、現在に至っている。 形の良い唇がふと暗鬱な笑いをひそめた。 忠告しよう、と彼は言った。 「目隠しの物語に自ら関わってはならない」 「は……?」 「さもなくば」 ――君の領域が壊れることになるよ。 紙コップに入ったココアの水面がゆらりと揺れた。 がそれに気をとられた一瞬のあと、すでに神野陰之はもうどこにもいなかった。 向かい側の椅子には、ほんの数十秒前のように、夕日だけが差し込んでいる。 (……目隠しの物語?) それは何のことだと尋ねようにも、黒衣の男は消えてしまった。 神野陰之と呼んでも、いつものようには現れない。 彼の言った『領域』とは、の自己防衛の結界のことだろう。 魔女が『壁』と呼んだ、を守り、時に眠らせるもの。 それが――壊れる? は全身から血の気が引いていくのをはっきりと自覚した。 なぜこんなに不安になるのか、自分でもわからない。 「何を知ってるの、神野陰之……!」 彼が聞こえていないはずはないのに。 幾度目かの呼びかけにも、やはり闇は応えなかった。 |