*** 狸寝入り *** 赤月帝国の中央に在る湖の名は、トラン湖、という。 美しい湖面の上では水鳥たちが羽を休め、時折うっすらと現れる霧の奥には、ずっしりと立つ湖城の姿。 湖の名をもらいトラン城、と名づけられたその城は、かつての赤月帝国水軍が本拠であったが、今はその帝国の圧政を覆そうと立ち上がった解放軍の本拠地となっている。 自分たちの平穏を取り戻すために立ち上がった解放軍の面々にはやる気が満ちていて、城は帝国に『反乱軍』とあだ名されているとは思えないほど平穏で、居心地の良い場所となっていた。 帝国のどの街を見ても、今では活気というものが感じられない。 その点解放軍には、活気ばかりが満ち溢れていた。 兵を鍛える者の怒号。 剣を打ち合わせる音。 指示を飛ばす指揮官の声。 明るい笑い声も、中からは聞こえてくる。 何時戦場になるかわからない場所だというのに、人々の表情は幸せそうに輝いていた。 「平和だなぁ…………」 その中でもひときわ間延びした顔をした少年が、船から降ろされた物資の箱に寄りかかって座っていた。 手にはアイボリーの表紙の本を持ち、かつ小脇には黒い棍を携えている。 しかしどうやら読書というより居眠りに近いらしい。その眼は細められ、本は開かれた様子がない。 「グレッグミンスターを離れてどれだけ経ったのか、わからなくなりそうだ」 平和に笑顔を向けつつも、その表情には多く憂いが見えるこの少年が、解放軍の軍主である、・マクドールだ。 今はただ、平和と、大切な人について、思いをはせている。 そう、思えば様々なものを失った。 平和に暮らした家。 父と暮らすこと。 親友と笑うこと。 全てもう、過去のことだ。 父は既に敵であり、親友は生死すら知れない。 グレミオやクレオ、パーンはと共にあるが、二人に会うことはもはや叶わない。 代わりに得た仲間も多いが、父や親友に変えられる人間がいないことも確かだ。 その逆もまた、然り。 「父さん……テッド……」 は大きく嘆息して、眼を閉じた。 活気満ちたトラン城が、今だけは……うるさくすら感じられる。 「僕はまだ、何のためにこうして生きているのかわからないでいるんだ……」 誰にも聞こえないような小さな声が、湖を駆け抜ける風の中に、まぎれて消えた。 しかし。 「何浸ってるんだか」 不満げな少女の声に、も眼を開けた。 そこには、肩に鞘入りの剣を担いだ銀髪の少女が立っている。 目じりが時折ひくっ、と動いているところからして――相当怒っているようだ。すぐさまそれを感じ取ったは、何とかその怒りを自分から逸らそうと、一生懸命笑って見せる。 「やあ、」 「『やあ』じゃないでしょ?あたしに仕事全部押し付けて、軍主様はこんなところで居眠り!?」 はそのままに詰め寄ってくる。 どうやら笑顔が、逆にその怒りをあおってしまったらしい。 「いや……僕、活字中毒でね?」 「へえ。じゃあその手に持った本はなんなのかしら」 「これは活字じゃないから」 「活字じゃない?」 に聞き返されたは、とっさに『しまった!』と思った。 その手の中にある本は活字ではなく手書きなのだ。 の注目がその本に行き――その眼が見開かれた。 顔が瞬く間に赤くなり、怒りの度合いも濃くなっていく。 「」 「あ、あはははは……やっぱり、怒ってる?」 「怒ってる?ですって……?ええ、怒ってるわよ。怒ってるわねぇ。なんだかもう、今なら熊でも素手で倒せそうなくらい怒ってるわ」 肩に担いでいた剣が、すらりと抜かれた。 「その本……あたしの日記じゃない!!!」 銀の輝きが、に向けて突きつけられる。 そう。アイボリーの表紙には、金字でこう刻まれていた。 『DIARY』と。 「ぐ〜〜〜〜〜〜〜」 「狸寝入りしてるんじゃないっ!」 「……『今日は危ない時にが助けてくれた。なんだかんだでふざけたところもあるけど、そういう時はとても頼りになるわ。本当はきっと、まじめな性格で……』」 「黙れぇ〜〜っ!!」 表紙を開き日記を読み上げるに、顔を真っ赤にしたが躍りかかる。 「『は凄く頼りになるわ』……さすが僕の愛する」 「わぁぁぁっ!」 本を開き、それを読み上げながら逃げる。 真っ赤になり、普段とは違い力任せに剣を振り回しながらそれを追う。 普段とは違った二人の、ちょっと変わった追いかけっこ。 今日は城内で、そんな光景が見られたとか。 トラン城は、今日も平和だ。 |