*** 幸運の女神 *** いつものように、いつもの時間が流れていく。 自分は水面に糸を垂らし、食糧確保にちょっと貢献する、そんな生活。 時折船を出す兄貴についていくこともあるが、それ以外は至って平和だ。 トランの時のように、自らが戦闘に参加するでもなく。 平和な日々。まさにその言葉どおりの生活だった。 「ヤム・クー!」 そこへ、ぶんぶん手を振りながらやってくる少女が一人。 勢いをつけすぎたのか全力でブレーキをかけて止まる彼女の目は、すぐに水面の釣り糸に向けられる。 「釣果は?」 「上々さ」 そう答えてやると、そっと魚籠びくを開いて、彼女は中を覗き込む。 中に入っていた魚を見た途端、彼女の目は輝いた。 「桟橋からでもこれだけ釣れるのね」 「やり方は幾らでもあるからな」 「……ねえ、あたしにも教えてくれない?」 唐突に切り出すと、彼女はヤム・クーのすぐ横に腰掛ける。 桟橋から零れ落ちた白い衣が、水に着きそうになっていて、ヤム・クーは素早くその裾を桟橋の上に引き上げた。 「あ、ゴメン」 「はそそっかしいところがあるからなぁ……」 「そそっかしいとは言ってくれるじゃない」 はぶすっ、として顔を背ける。 ヤム・クーはそんな子供っぽいしぐさに苦笑しながら、竿に反応を感じて素早く竿を引いた。 糸を巻いていくと、すぐに大きな魚が揚がる。 「おおっ!」 その魚をの上に持ってくると、はまだ針についている虫に顔をしかめながらも、針から魚を外して魚籠の中へと放り入れた。 「ねえヤム・クー」 「?」 「あたしにも釣り教えてよ。こんな桟橋じゃなくて、もっと……沖合いの方でする釣り!」 「けど兄貴がいない時に船は……」 「へっへ〜ん。それが、許可は取り付け済みなのよね」 はそう言うと、懐から小さなサイコロを取り出す。 それを見たヤム・クーは、何があったか大方察して、大きく嘆息した。 「あんまり兄貴をいじめないでやってくれよ。は勝負運が強いからなあ」 「『あいつ一人でも釣くらい行けるさ……』との伝言」 「……けど、夕飯までの間で」 「オッケー!」 真昼を少し過ぎたくらいの太陽が、さんさんと輝く中。 二人を乗せた船が、ゆっくりとデュナン湖に漕ぎ出した。 *** *** *** *** *** *** *** *** *** むすっ。 そういった表情で、何分水面を睨んでいるのか。 はずっと、一匹の魚も釣れず、青筋を浮かべてじっと船縁にもたれかかっていた。 それでも船縁から動かないのは既に諦めているからなのか、意地なのか。 「、食べな……」 「……自分で釣る〜っ!」 は、ヤム・クーの勧める魚に手をつけることすらせず、じっと耐えている。 昼を食べずに出てきたので確かに空腹ではあるが、そこはそこ、おなかが鳴ろうが何だろうが、は意地っ張りなのだ。 腹筋を使って、胃を押さえ込み、何とか耐えていた。 「魚の分際で……あたしに逆らうとは……魚のくせに生意気よ!!!」 「……釣られる、ってことは魚にとって死ぬことでしょう?」 「それでも!」 くいくいと竿を動かして、は口を尖らせる。 無理もない。かれこれ一時間以上、何の変化もないのだ。 餌を取り替えても。 場所を変えても。 の竿には何の反応もない。 すぐ横では、ヤム・クーが次々と魚を釣り上げているというのに。 「意地でも釣ってやる!」 さっきから、こんな問答を何回も繰り返している。 そして最後には決まってヤム・クーが嘆息して終わっていた。 「そういう強情なところがなけりゃなあ」 「強情かな、あたし」 「だな」 「……キンバリーさんとどっちが強情?」 その問いに、ヤム・クーは困ったような顔をする。 「……平然と答えにくいことを聞く……」 「じゃあ、あたしキンバリーに匹敵すると?」 「兄貴を捻じ伏せてまで釣りに行きたがるわ、釣れなくても止める気配はないわ……十分強情だと思いますが」 「そこまで強情じゃないと自負してたんだけど……そう言われると否定できない気がしてきたわ」 はで困ったような顔をして悩みだした。 「他人の制止を振り切って一人で敵陣に飛び込んでいく」 「……………………」 「あのルカ・ブライトと一人で切り結んでぼろぼろになって帰ってくる」 「……………………」 「昼を食べてなくて、腹が空いてるのに必死で我慢して」 「………………何故バレた………………」 はっきり言ってバレバレだ……そう言いたいのをこらえて、ヤム・クーは笑う。 そりゃあ、ヤム・クーの魚を見るときの視線を見れば一目瞭然だ。 ……おいしそう。 そう言わんばかりに、魚を見つめているのだから。 は時折くいくいと竿を動かしながら、そうするたびに嘆息した。 「あたし、才能ないかな」 「釣りなんていうのは技術よりも忍耐力と……運」 「運があるとは言いがたいな、あたし」 「そうかもなぁ」 「こういう時は否定して欲しいのよ!」 何度目になるのか。 こんなむなしい会話を続けていた時。 びくんっ。 の持っていた竿が、大きくしなった。 『!?』 その力には慌て竿を握り締める。 「っ重…………」 「こりゃ……大きいですね」 「本当!?」 はその言葉を聞いて俄然ヤル気になったのか、一生懸命に竿を支え、糸を引いていった。 しかし。 ぐいぐいぐいっ いきなり、魚の力が強くなる。 「えっ……ちょ……嘘〜〜〜〜〜っ!!」 魚の力にバランスを崩したは、盛大な水音を立てて湖に落ちた。 すぐに顔が湖面に浮かぶが、はその手にまだ竿を持っている。 「あたしは『強情』なのよ!逃がすもんですかっっ!!」 どうやったら水中で魚に張り合えるのか不思議なものだが、は何とか竿を支えていた。 「大丈夫か!?」 少し船を寄せ、ヤム・クーはの身体を引き上げる。 いつもは軽すぎるくらい軽いその身体も、こうして大量に水を含んだ場合はさすがに重い。 水をたばだばと船に落とし、べったりとなってしまった銀髪を払いのけながら、しかしはまだ魚と格闘している。 本当に意地っ張りだ――ヤム・クーはそれに呆れながらも、その竿を持つの腕を支えた。 「ヤム・クー?」 「一気に上げるんじゃなくて、ゆっくり、魚の体力を削る」 「……わかった」 はヤム・クーの指示通り、竿を動かし始める。 しばらくすると、段々魚の引きが弱くなってきた。 「そろそろ揚げれるだろう」 もう魚に抵抗する力がほとんど残っていないと判断し、ヤム・クーはから離れる。もで、余裕だ、と思ったのか、自分ひとりで糸を引き上げ始めた。 「初ヒット〜っ!」 「一番最初がこれだけ大きければ、上出来でしょう」 「今日の夕飯は久しぶりに魚料理ね!」 しかし、この魚、そうそう甘くはない。 「って、また強くなった!」 最後の力を振り絞って、抵抗をはじめたのだ。 もで、船縁に足をかけて抵抗する。 両者の力の拮抗が、船を不安定にするほど、激しい引き合い。 「!」 「んにゃろ〜っ!負けるかぁ〜〜〜〜〜っ!」 背筋測定の時のように大きくのけぞって、は竿を引く。 その竿とをつかみ、ヤム・クーが支える。 二人で息を揃え、竿を引いた。 次の瞬間……水音が盛大に上がる―― *** *** *** *** *** *** *** *** *** 「で、結局二人揃って湖に落ちたってか」 「笑い事じゃありませんよ兄貴」 「いやまあ、悪い悪い」 笑いながら、まだ湿り気の取れない髪の弟分の背を叩き、ヤム・クーは笑った。 はというと、着替えも早々に済ませ、今は厨房を借りて料理をしているはずだ。 「アレだけの大物を釣り上げたんだ。仕方ないさ」 「はアレをどう料理するんですかねえ」 「それはに任せるさ」 二人のほかにも、酒場で『の料理』を待っている人間は大勢いる。 軍主であるはずのユウリや、その義姉ナナミ、他にも、フリックやビクトールなど。 の、と付くだけで、大勢の人間が集まっていた。 「さすがの人気ぶりだな」 ヤム・クーが言うように、の影響力は大きい。 の釣った魚はもちろん、ヤム・クーが釣った魚も料理されることになっているので、量としては足りるだろうが…… 「どうにも、解せませんね」 「……どうした、ヤム・クー」 「いえ、別に…………」 「まあの料理を他の奴に食わせたくないってのはわかるけどな」 「兄貴っ!」 そんなことを平然と言うヤム・クーに、酒場の視線が集まり……その科白に焦るヤム・クーへと、さらにその視線がうつっていく。 お前も――狙いか? そんな視線がいくつもいくつも向けられた。 ティルや、ユウリや、フリックや、ルック……そして、その他諸々の視線。 一瞬で、酒場が戦場の緊迫感を帯びる。 一触即発の雰囲気に、レオナはカウンターの影に身を潜め、ハンフリーとビクトールは何気ない仕草で席を外した。 色んな視線が、ヤム・クーに向けられたかと思うとお互いの牽制になり、当のヤム・クーが逃げようとすると、『お前が逃げるか?』とでも言いたそうな視線が再び向けられる。 早く来てくれ。 酒場にいた人間のほとんどがそう思った時、タイミングよく酒場のドアが開いた。 「出来たよっ!」 その手には、いくつものお盆が載せられている。 一流ウェイター顔負けの大量の食事を載せて、レストランから歩いてきたらしい。 普段の服が洗濯中なので、いつもは使わないワンピースに袖を通し、エプロンを着けたの姿に、レオナたちは天使の羽をも見た気がした。 「…………何?」 「いや、なんでもない」 「そう?……あのね、白身魚はムニエルと煮魚にして、他は刺身の盛り合わせにしてみたのよ」 は自信たっぷりに皿を並べていく。 普段料理をしている姿をあまり見ないだが、その腕はグレミオに鍛えられただけあってなかなかのモノ。 「全員ヤム・クーに感謝して食べてよね」 の持った料理が、次々とテーブルに並べられていく。 ティルやユウリは、『頂きます!』と言うなり料理に飛びついた。 最後に、は持ってきた船盛をヤム・クーの前に置く。 「今日はありがとう、ヤム・クー。ヤム・クーがいてくれなかったら釣れなかったし……楽しかった」 は満面の笑みをヤム・クーに向ける。一瞬どきりとしつつ、ヤム・クーはそれに平静を保ちながら答えた。 「あの程度ならいつでも行けるさ」 「……髪、濡れちゃったね」 湿り気の抜けないヤム・クーの髪に触れ、は申し訳なさそうに言う。 そういうの方が髪は長く、濡れているのだが、自分のことは眼中にないらしい。 そういうところが、またの『いいところ』ではあるのだが。 「も食べるんだろ?」 「もちろん。こいつはあたしが釣ったんだから」 タイ・ホーに言われて、はエプロンを外しながら笑った。 ヤム・クーの隣の椅子を引いて、も食事の席に着く。 「そうそう、タイ・ホー」 「何だ?」 「今日の負け分、一週間以内によろしくね」 「…………………」 笑顔で言われたタイ・ホーは、小さく『抜け目ない……』とはぼやいたものの、周りの目線が怖く、それ以上は言えなかったとか、何とか。 |