気が乗らないときのスポーツほど面倒なものはない。 確かに身体を動かすのは嫌いではない――気が向けば。 それはあくまで気が向けばの話であって、年から年中ヒマと体力をつぎこみつつ辛く苦しいトレーニングの果てに全国を目指すような、そんな本格的な体育活動にいそしみたいわけではないのだ。断じて。 自分にとってスポーツとは、せいぜい温泉につかったあとの暇つぶしの卓球大会。修学旅行のバスの中で何となく始まるババヌキ。登山で頂上についたときのヤッホー。そんなようなものなのだ。 単にノリともいう。 「ああっ……空目くん、いいところに!」 「?」 猛烈にダッシュする先に真っ黒い男子生徒を見つけて、彼の目の前でキキィッと止まる。 おもむろに腕をつかみ、前後左右をすばやく確認して、使われていない手近な教室に飛び込んだ。 がっちゃり、と鍵を下ろす。 「よし、これで撒けたか……」 「…………。」 ふう、と深刻そうに汗をぬぐう少女に、黒づくめの少年はいつもどおり淡々とした疑問の視線を投げかけた。 番外編.かぐわしきは指 思い起こせばデッドヒート。 先日のあれがどうやらマズかったらしい――と今日のさっきになっては理解した。 あれから知らない生徒に話かけられる機会が急激に増え、原因がわからないままに、意図のつかめない客を適当に会話してさばいていたのだが。 その手の生徒は増えるばかりでちっとも減らず、あげくは稜子とのささやかなランチタイムを邪魔されるまでに至り……いいかげんたまりかねたは、まとわりついてくる生徒のひとりを人気のないところへ連れ込んで、今後への建設的なお話の場をもうけた。 果たして、さきほどになって理解した。 どうやら運動部への勧誘をかねたナンパだったらしい。 いくらそういうことに鈍いとて、単なる勧誘か単なるナンパのどちらかであったならば、もっと早くに事態に気づいていただろう。 さらに指摘するならば、近づいてくる生徒がすべて男子だったならば、もういくらか早い時点でピンときたに違いない。 五人に一人の確率で女子が混ざっていなければ。 真実を理解して何ともいえない心境に陥っていた彼女は、建設的なお話し合いに応じてくれた卓球部部長にしつこく心配されつつも、昼休みのチャイムを耳にし、稜子や亜紀たちのもとへ行こうとした――が、食堂にたどりつく前になぜだか見知らぬ女子生徒たち数人に囲まれてしまった。 少女たちの手によって差し出される小さなかわいらしい包みには、マドレーヌ及びクッキーが入っているらしかった。 彼女たち曰く『これ、作ったんです! 良かったら食べてください』と――。 何で私に!? とは心底驚愕したが、緊張して声の震える彼女たちの精一杯の勇気を感じ取ってしまい……『受取ってくれるだけでいいんです』とまで言われ、そんな健気な心を踏みにじるような真似をするにも気が引けて、『ありがとう、昼食に食べさせてもらうね』と、ついお礼を言って受け取った。受け取ってしまった。 女子の情報網とは条件によってはすさまじい威力を発揮する。 その伝達能力の迅速さは時に油断していたものの度肝をぬく。 も、まさかそんな事態になるとは思っていなかった。 調理実習の授業があったというのも大切な要因のひとつだったかもしれないが、 酔狂な女の子たちもいたもんだなあ……そんな程度に軽く考えていたのだった。 “先輩が受け取ってくれた”という情報に便乗した女子生徒が、次々と連続してあらわれるまでは――。 そこまで事情を話し、は深い深いため息をついて黙り込んだ。 思い出しただけで疲れたようだ。 「そうか……。先日の村神との競争は、確か選択科目の体育だったな。グラウンドの位置から予測するに、本校舎西側と北側と中央の一部、特別棟、部活棟、体育館……考えてみれば常に人の目にさらされている場所だ。多くの生徒がお前と村神の一件を目撃し、尾ひれをつけて広めたのだろう」 「そんなふうに考察されてもさ……。うう、疲れた……」 「――それが、例のプレゼントか?」 「ん?」 壁によりかかって座り込むのそばの教壇に腰掛けて、空目はとある紙袋を目で示す。 ノートほどの大きさの紙袋にはぎっしりと調理実習の産物がつめこまれ、不思議な圧迫感を見るものに与えていた。 「ああ、うん、そう。……はい、これ。空目くんの」 「――俺の?」 「中には『空目先輩に渡してくれませんか』なんて女の子がいてだね……。君には直接渡しづらいんだそうだよ。納得できて面白かったから、頼まれてみた」 軽い気持ちで受け取った空目へのプレゼント。 しかし対する彼の返事は簡潔だった。 「いらん」 「いらんって……。別に毒なんて入ってないと思うよー?」 「保障などない。複数の見知らぬ人間の手に渡った、受け取る義務の生じていない食物を、好きこのんで口に入れる気にはなれん」 「……そう言われると私のもらったやつもちょっと怖くなるんだけど……。じゃ、仕方ないから好きに処分しちゃうよ?」 「ああ」 これでの当面のおやつはクッキー及びマドレーヌに決定した。 しかもタダ。(これが大切) 添加剤が入っていないので急いで食べなければならないのが難点といえば難点である。 ガサガサと空目に渡す予定だったお菓子を袋につめなおしていて、ふと視界に入った別の紙袋があった。 もらったお菓子の紙袋に比べれば、はるかに小さな、それ。 その中にはこれも小さな、たった一つの包みが入っている。 「――ねえ、空目くん。なら、これ、食べない?」 かすかに眉を上げて疑問を表現する彼に、は紙袋からそれを取り出した。 女子生徒たちにもらったものと違って、飾らない簡素な包みの、小さな塊。 無造作に包んでいた紙をほどくと、ころんとしたミニ・マドレーヌとクッキーがあらわれた。 「私も調理実習だったんだ。もちろん味見済み。なかなか悪くない出来だし、」 (あ。) 勧めている言葉の途中で、ひとつのクッキーが、ひょいと空目の口の中に消えた。 きょとんとするに、「もらう」と遅い一言。 そういえばお昼時で彼もお腹が減っていたのかもしれない、と考えつくまで、ぽかんと空目の食べるさまを見ていた。 ひとつ、またひとつ。 もともと多くなかった包みの中身は、あっという間になくなっていった。 感想もなく黙々とたいらげてくれた黒づくめの少年に、思わずは顔をほころばせた。 彼は、おいしいともまずいとも言わなかった。 らしいといえば、らしい。それがには、何だか面白くて仕方がなかった。 それでも少しばかりの悪戯心で、食べ終わった空目に訊いてみた。 返事は多分わかっている。 きっと一言、無表情のままで。 「……おいしかった?」 「悪くない」 「そう言うと思った」 くすくすと笑って、少し前に彼自身が使った言葉を、わざと使った。 ささやかなお返し。 あのとき自分がした思いに比べれば、この程度の意趣返しなどかわいいものだ。 笑いながら、は中身のなくなった包みを折りたたんでゴミ箱へ入れようとした。 ――その指を、空目が無言でとらえた。 不思議に思って少年を見ると、視線だけで「少し、貸せ」と許可を求められ、何を貸すのか疑問ながらも、深く考えずに気安く頷く。 くい、と空目につかまれた指を引き寄せられた。 決してきつくない握り方だったが、逃げられないような戒め――そう感じてしまった自分がは何より不思議だった。 「ど、どしたの、空目くん……?」 「お前からずっと甘い匂いがしていたので、多少気になった。何の匂いかと思ったが……」 「――ああ、何だ。お菓子の匂い?」 「らしいな。だが、ひとつ今まで不可解だったのが――」 捕らえられたの指に、空目がふっと顔を落とした。 体温がつたわりそうなほどの近さだった。 (………っ!) 目を閉じて匂いに集中する空目の吐く息が、やわらかく指先に絡まる。 「……やはり。お前の指から、最も甘い匂いがする」 「ええ? ……あ。」 もしかしたら――とあたりをつけて、は調理中の出来事を話した。 バニラエッセンスの蓋がぼろっと外れて、どばっと一瓶分の液体が指にかかってしまったアクシデントがあった、と。 「それだな。道理で――山ほどの菓子よりも強い匂いがするわけだ」 おかげで気づくのが遅れた、とため息をつく空目。 その息すらも指先をそよがせて、は何だか落ち着かなかった。 ほどなく解放された自分の手で指先をぎゅっと握る。 心を落ち着かなくさせる吐息の感触――その名残に、そうでもしなければ耐えられなかった。 守らなければならない鍵がある 誰にも渡してはならない砦がある その扉を開けてしまえば……きっと もう戻れない …… まだ 決めたくないのに …… 「。そろそろ隠れるのもいいだろう」 「あ、うん。おなかも減ったしね!」 ずっしりした紙袋を持って、彼のあとに続いて教室を出る。 後ろを振り返ることなく。 指先に触れたのは吐息だけではなかった。 かすめたように感じた――唇。 |