最近気づいたことがある。
 
 皆は彼のことを人間味に欠けるだとか感情がないだとか情緒を理解しないとか云うけれど、それはおそらく半分くらいは当たっているのだろうなあ、と。

 彼の振りかざす隙のない理論は、思うにきっと、そのためにあるのだ。
 体験として理解できないものに、理屈を通して何とか自分の中に整理する。そういう行為なのではないかと。
 知識の泉とか聡明とかそんなふうに思われている彼は、実は根本的に鈍いのかもしれない。
 その鈍さは、もうどうしようもない鈍さなのだ。
 たとえるなら、切り落としてしまった髪の毛のような――

 もう、もとのままには戻らない。
 消失ゆえに消失を憂うことすらもままならない、欠けてしまった一部。

 けれども本当に彼は――空目は、失ったままでもかまわないと……?
 
 ああ、思考が混乱する。
 こんな取り止めのないことを考えている場合ではないのに。


「ほんとにそんな場合じゃないよ……!」


 電池の切れた携帯電話を右手に、旅行かばんを左手に。
 真夏らしく快晴な青空の下で、唯一やかましい蝉の声がBGM。
 真っ白いワンピースの背中を汗に濡らして、一体自分は何をやっている?

 答え、道に迷っている。

 ――嗚呼、果たして此処は何処なのだらう。




















7.とりあえず夏休み



















 ことの起こりは――つきつめてさかのぼり続ければ数日前。

 七月も下旬にさしかかろうというころ、全国の学び舎の例に漏れず我らが聖創学院高等部ももうすぐ夏休みを迎えようとしている。
 本学学生の大半は寮生であり、その寮生の大半は早くも帰省の準備にとりかかるこの時期、寮内は少なからず騒然としている。

 やりのこしたレポートの始末、部屋の片付けや帰省の荷造り、荷物の搬送に宅急便業者の手配、帰省手続きなど、昼夜を問わず皆おおむね多忙である。
 どこからともなく聞こえる掃除機の音に、(私も掃除機かけなきゃ)などと思い出しながら、は部屋に遊びに来ていた稜子に作り置きの麦茶を「はい、冷えてるよー」と渡した。
 ありがとう、と受け取りながら、稜子は普段と変わらないの部屋を見渡して、言った。

ちゃんは家には帰らないの?」
「ううん、帰るよ? 終業式の日に」
「…えっと、3日後? えっ、じゃあ早く荷造りしなきゃ」
「あ、もう終わってるよ。…ほら」

 ホラと指差すそこには、二泊三日程度の旅行かばん。
 あきらかに一ヶ月を越す長期帰省の荷物にしては、どう見ても身軽すぎる装備だった。
 思わず「……これだけ?」と聞くと、はこともなげに頷いた。

「必要なものはウチにもあるし、本とか持ってったらキリないし…。というか、ここよりウチのほうがはるかにいっぱい本あるからさー」
「そっか…。これよりはるかにあるんだ…」
「うん、ええと――ざっと五倍は確実に」
「五倍……」

 稜子は半分羨望で半分あっけにとられたような顔でつぶやいた。
 というのも、のこの部屋の蔵書のすさまじさを知っているからである。
 部屋に備え付けの本棚にはもちろん、上棚や机の引き出しにいたるまで、ぎっしり本という本がつまっているのだ。

 私物の大半が本だといっても過言ではない。
 何しろ軽く数百冊である。
 それの五倍以上だという彼女の自宅はもっとすさまじいに違いない…。
 まさしく本屋敷?

「魔王様みたいなんだね……」
「え、空目くん?」
「うん。魔王様もね、すごい量の本、持ってるらしいよ。ただちょっと内容が」
「……ああ……。蔵書傾向はげしく偏ってそうだよね」
「そうみたい」

 ちなみに、空目が『魔王』などと呼ばれているとが知ったのは文芸部に入ってすぐのことだった。
 まず武巳の「陛下」発言に驚き、次に稜子の「魔王様」発言にびびった。
 それがあだ名なのだと教えてもらって、発作的な衝動に我慢できず、しばらく机につっぷして――腹を抱えて笑い続けた。

 誰がつけたのか知らないが、なんとすばらしいネーミングセンスだと思った。
 ウェットな味わいでありながらブラックジョークが効いているところが秀逸だ。

 くすくすと稜子と笑いあいながら、荷造りの手を進める。
 ダンボールを運んだりガムテープを切ったりと手伝ってくれる彼女に「稜子ちゃんは帰省は?」と訊くと、「そのうち帰るよー」とのんびりした答えが返った。

 も深く気にせずに、そっか、と笑った。
 二人とも、何の建前もなくそのときは言葉のままそう考えていた。

 ――そのときは、まだ。



















 姉の訃報を稜子が受け取ったのが、その二日後だった。

 終業式を待たずに急遽実家へ帰省することになった稜子の荷造りを手伝ったは、見送りのとき最後に彼女が見せた影が気になって仕方がなかった。
 大切な身内が自殺というショッキングな死に方をしてしまったからか、どことなく稜子の様子はいつもと違っていた。

 心配でたまらないがさりげなく気を使って言葉を選んでも、稜子はそういう気配に人一倍敏感で、『そんなに心配しないで? 私は平気だから』と返って気を使わせてしまうのだ。

 気を揉めば揉むほど逆効果。
 まともに心配することもできなくて、は友人としてもどかしくて仕方がなかった。
 何かしてあげたいのに、何もしてあげられない。

 それでも故郷に帰って肉親の中でなら自然と慰められる傷もあるかもしれない、と精一杯のおみやげものを渡して見送った。

 何かあったら遠慮なく連絡してね、と言うには言ったが――本当に大変な事態が起こった場合、稜子の性格からして友人を巻き込む選択をするかどうかは疑問の残るところなのだが。














 稜子への心配を心のどこかに残しつつも、終業式を迎え、も帰省の日となった。
 旅行かばんケースをガラガラと引きながら、聖創学院名物の坂を下る。

 今になって知ったことだが、入学初日のあの地獄坂は裏門だったらしい。10分程度で本校舎へ到着できる正門からの最短ルートを、転校生だった彼女は知るべくもなかったのだ。

 そういうことはパンフレットに書いておいてくれよ…!(by 転校生代表)

 ――と、文句を青空に向かってつけたところで後の祭りである。
 その最短ルートをさっそく使用しながら、はため息をつく。

 稜子のこともあるが、帰省先の心配である。

 両親。あの両親。
 つねづね本当に血がつながっているのかどうか不思議な、あの若作りな両親は……ちゃんと住宅環境を整えているだろうか。

 の転校とともにこの町に移り住んで早半年弱。
 ダンボールの三つや四つ残っていてもまったく不思議ではないが、下手をすると突発的な旅行クセを発揮して、きちんと住んでいない可能性がある。

 今日帰省することは事前に伝えてあるが――まさかという思いがあった。
 電話で確認を入れておいた方がいいかもしれないと、にわかに不安になって、携帯電話をポケットから取り出す。


 登録してある番号を呼び出そうと、ボタンを押そうとしたとき、

 この世界のものではない――いびつな音が聞こえた。



(………これは)


 意識が引っ張られるような感覚がした。
 振り向かずにはいられない、何がしかの引力。

 時間のきしむ音、それは耳障りな縄の悲鳴。
 閉じ込められた空間の主張する、現実との解離の証。


(前にも遭った……首吊りの……)


 ぎぃ、ぎぃ ……


 現実にはありえないロープの音がする。
 見えてはならない巻きつけられた頭に隠された物語。

 おいで、おいでと手招きしている。
 その木の下で、果たすべき役目が待っている。




 ……ぶらさがっているのは、


              なんの、実……?




「―――。だめだよ、私は……そこには行かない」

 引き寄せようとする強い流れに、は独り言のようにつぶやいた。
 これほど自分を求めてくる『彼ら』は久しぶりで、境界を置くのが遅れた。

 そこには行けない、という言葉で距離を置くことができる、と気づいたのはいつだったか。
 何かで読んだ心霊現象のうさんくさい本で、決別の言葉は有効だと霊能者のコメントが載っていたのだった。
 実際軽い気持ちでためしてみれば、なるほど、意外に効果は期待できたもので。

 それ以来、引力の強い『彼ら』に遭遇した場合に使用しているのだが……今回ほど直接的に求められたことはなかった。

 転入してきた日にも感じたことだが、この学校は少々おかしい。
 深くつっこまれそうなので面倒くさくて空目には言っていないが、これほど『彼ら』がそこいら中に分布している場所もそうそうないのではないか。
 
「……まあ、夏休みになっちゃうからしばらく関係ないけどね?」

 今度は正真正銘の独り言をこぼして、彼女はくるりと校舎に背を向けた。
 首吊りの枝も、ぶら下がり続ける奇怪な何かも、当分は関係がない。

 や〜れやれ、と背を伸びして一息つきつき、携帯で両親へコンタクトをとった。













 そして、現在。

 結果的にはコンタクトできなかったわけで、あんのクソ夫婦と毒づきながら、羽間の街並みを延々眺めつつヨロヨロと歩いている。
 留守番メッセージによると案の定エクアドルへ旅行中らしかった。(なぜエクアドル…)
 日本へ帰国するのは明後日だとか。

 寮へ逆戻りするにもバッチリ帰省届けやその他もろもろの手配をしてきてしまった手前、なかなか帰りづらいものがある。というか目ぼしい荷物は郵送してしまってほとんどない。
 さらに寮費締めの関係もある上に――最近なぜか増えた、無駄に話しかけてくる見知らぬ人たちが、長期休暇をいいことに色々な方法で遊びに誘ってくるのがうるさかった。

 仕方がない、誰か友人のうちに泊めてもらおう……と思い立ったはいいが、稜子は事情により不可能に近く、亜紀は何だか最初から微妙に苦手がられている気配なので気まずいお願いすぎるし、武巳は寮に居残り組だった。
 あとの選択肢が空目が村神となったとき、は単純にアイウエオ順で決定し、空目に連絡を取った。

 はっきりいって彼女はまったくこれっぽっちも期待していなかった。
 無愛想に「断る。」で一刀両断だろうとありありと予想できていた。
 しかし、ものはためし。
 断られても、それは駄目モトというやつだ。
 そんな気軽な玉砕覚悟で挑んでみた結果――思わず、耳を疑った。

 これは予想通りの無愛想な声があっさり「かまわん。」と了解したのである。
 つい五回も六回も確認したくなる気持ちになるというものだ。


 そんなわけで空目宅へ進路を変更し…こうして羽間市内をさまよう結果へと至るわけである。


 凝視しすぎてわけがわからなくなった地図を握り締めて、ガラガラと旅行ケースを引きずる。 
 方向音痴だ方向音痴だという自覚はあったが、こうまで見事に迷うと、もはや自嘲の言葉すら出てこない。

 空目に改めて道をたずねようにも、携帯の充電が切れてしまって繋がらない。
 さまよい歩くうちに太陽の位置もずいぶん変わってしまった。
 空目宅が建っているという住宅地にはとうに入っている。

 地図を見るかぎり確実にこの付近にあるはずなのだが、そういう状態になってからゆうに一時間は経過している自分の方向感覚では、まったくもってさだかではない。

「ここはどこなんだ……」
 
 疲れ果ててつぶやき、手近な壁に手をついて一休みする。
 京都の町並みのように似たような道と角のせいで、見事に方向感覚が惑わされている。

 つくづく新参者にやさしくない街だ……と愚痴り、再び歩き出そうとして、ふと手を突いていた壁の先にある表札を目にした。


 ――そこには『空目』とあった。


 間。

 理解するまで時間が必要だった。
 やがて視界の情報を脳が認識し、はうれしさを通り越して脱力した。


「……ここかよ……!」







 とにもかくにも、夏休み。





















→next




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キリリクの反動で甘さの欠片もない話に…!
ここから原作『首くくりの物語』に沿っていきまッす。
一体何話で終わるのかなあ…。ドッキドキ。(汗)