(でっかい家だなあ…) 右を向いても左を向いてもタイル造りでレンガ多用、日本離れした景観。 そんな中、萎縮することなく立派にそびえ建つ洋風のお屋敷。 少しばかりドキドキしながら扉が開くのを待っていると、 玄関先にあらわれた空目は相変わらずの辛気臭い色彩に身を包み、を一瞥後、当然のごとく『いらっしゃい』も『よく来たな』もなく、無愛想かつ無表情に言い放った。 「入れ」 ……そーいえばこんな人だったわ。 改めて彼の変人っぷりに驚くとともに、諦めにも似た感情で「…おじゃまします」と小さく頭を下げた。 8.触れる理由 あたりまえの話だが、真夏の炎天下の野外に比べて、室内は大変に涼しく快適だった。 とりあえず。 あまりにもナチュラルに空目宅に溶け込んだあやめが「……ど、どうぞ」盆に乗せて持ってきてくれたアイスコーヒーをありがたく2秒で飲み干し、 あっという間に空になったグラスを目を丸くして見ていた少女があわてておかわりを注ぎに台所へ逆戻りするのを晴れやかな感謝の笑顔で見送り、 さんざん迷いまくったことを愚痴った際に当然つっこまれた「何のために携帯がある」という言葉に、よくぞ訊いてくれましたとばかりに見事にブラックアウトした液晶を印籠のごとく掲げ「……」少々の沈黙ののち冷静に充電器を差し出されたりしながら、 ようやくは、ふう、と一息をついた。 「ごめんね、急に。どうもありがとう」 「かまわん。多少掃除は行き届いてはいないが、部屋ならば余っている」 「ありがたい……助かるよ」 そっけない返事にきちんとお礼を述べる。 ごめんなさいとありがとうとご挨拶は人間関係の基本だ。さらに笑顔がつくとなお良い。 彼にはどれもこれもあまり興味がなさそうではあるが――特に笑顔あたりが。 「部屋は二階だ。あやめが知っている」 「うん、じゃあ荷物置いてきちゃうよ。……あ、そうだ」 空目宅にお邪魔できるとわかった時点から期待していた『お願い』を、きらきらした眼差しで訴えた。稜子に聞いて、どうしても一度見てみたいと思ったもの。 「空目くんの蔵書! みんなの噂に聞く蔵書が見たい〜」 コアな古書もいっぱいあるって本当? 絶版初版あたりまえって本当? あふれんばかりに期待のこもった目で見つめるまでもなく、あっさりと空目は顎をしゃくって「…こっちだ」と案内してくれる模様だった。 うきうきした足取りでが続き、そのまた後をアイスコーヒーを抱えたあやめがパタパタと小走りに追いかけた。 事実は小説より奇なり。 人の噂に上る彼の『黒い』蔵書は、噂のレベルをはるかに超えていた。 伝え聞いていた“人間を呪う方法だとか怪しげな魔術だとか”などという可愛らしいレベルではない。 「さすがだ…と素直に感心していいのか……」 魔術、錬金術、道術、梵術、ブードゥ呪術、エトセトラ。 理論なき実践も、実践なき理論も、どちらも大成には結びつくまいとされる要因だが、一介の男子高校生があんまり両方のハウトゥー本ばかりを所持しているのもどうかと思う。 そういえば以前、空目の蔵書に興味を持ったに、武巳が苦笑まじりに教えてくれた。 『あのさ、楽しみにするのはいいけど、陛下の持ってる本は…黒いのばっかりだぞ?』 まさしくその通りでした武巳くん……。 これは確かに黒い。真っ黒だ。 魔術関連書物に並んで多く見られる民俗学的な表紙が、この状態にあってはずいぶんと心を和ませてくれる。たとえハードカバーの『都市伝説・今昔』『怪談〜真の実話集〜』なんて題名までもが並んでいたとしても、はるかにまだ一般的といえる。 よくもまあ集めに集めたりという感じだ。 これはもうオタクかマニアの域だろう。 指でつーっと表紙の群れをなでながら、感嘆でか真逆の感情でか、ため息をつく。ある意味期待を裏切らない男、空目恭一。 その彼は今、階下に何事か用事でも思い立ったのか、特に説明もなく無言のまま部屋を出て行った。大量のあやしげな蔵書の鎮座する部屋で、ぽつんとは取り残されていた。 はたと唐突に気づく。 ここは男子高校生の部屋なのだ。 世間一般でいうお年頃の、多感な思春期の、男の子の部屋なのだ。 いかに空目が世間の基準から大きく、はげしく、いちじるしく、致命的にズレているとしても、確かにここは彼の個室、プライベートルームなのである。 今更にその事実に思い当たり、はしばし黙考した。 「…………」 きょろきょろ、と周囲を確認する。 本当の本当に誰もいない。良し。 さらに、目を閉じて耳をすませる。 一階の物音はなし、階段付近にいる様子もなし。良し。 一人、うん、と力強く頷いて、壁に沿うようにして配置されているベッドにススス、と静かにかつ素早く移動する。もう一度人気のないことを確認し、キラリと目を輝かせた。 そして、おもむろにガバッと体勢を低くする。 やわらかく首を曲げて、できるかぎり床に顔を近づけた。 目をこらす。 「ううむ……おかしいな」 「……何か見えるものがあるのか」 「いや、それがとんと……。おかしいな、どんなに興味ありませんって顔してるやつでも大抵一冊は隠し持っていると聞いたのにー」 「ベッド下にか」 「そう、エロ本が……」 ――って。 激烈にイヤな予感がして顔をあげると、古びた本を数冊ほど手にした空目が無表情に彼女を見ていた。状況から察するに、どうやら下にはその本を取りに戻ったらしかった。 彼の階段をのぼる足音が聞こえなかった気がしたが、もしかして探すことに熱中しすぎて耳に入らなかったのだろうか。これも状況から察するにそれしか考えられなさそうではあった。 「…………あー。」 視線をさ迷わせつつ、数秒。 頭の中ではめまぐるしく言い訳の言葉を考えていたが、つっこんでもくれないノーリアクションの彼に無駄な努力をあっさり放棄した。 潔く、ここは本人に聞いてみよう作戦に移行。 「空目くん……ベッドの下派じゃなくて枕の下派?」 あまりにストレートな問いにも、さすがの空目恭一はわずかに眉をひそめただけだった。 冷静に反芻すると頭を掻きむしりたくなるような色々な意味でスレスレの会話を割愛すると、結果的には彼は一度も困惑も頭痛も羞恥も覚えることがなかった。 の意図を理解したとたん、「お前に言うことではない」と正論すぎる返答をした。しかし、(…おお、にごすということは一冊や二冊は持ってるな?)という表情をした彼女に気づき、ややあって「見ての通りだ」と、そっけなく一言を返す。 それはそれで断定できない内容だが、まあいいかとは追及をあきらめた。 こういう話題はすべからく引き際が肝心だ。でないと、おおむね妙な事態に発展する。 だから、その言葉は深い意味をつけて言ったものではなかった。 正真正銘、終わりにするつもりの最後の冗談だった。 「なるほど。陛下には性欲なんてナイってかー」 「……そうともかぎらないがな」 あるにはある。つけたしに聞こえた言葉に、思わず、大げさでなく目を丸くした。 何だかんだとからかいながら、彼とその手の情念は無縁のような気がしていたのだ。 こともなげに空目は言う。 「睡眠欲、食欲、性欲は生きていくための本能だ。ヒトという種を残すためにあらかじめ遺伝子に記憶されている根本的なプログラムであり、生物として器質的にも明らかに直結している。よほどの後天的障害でも起こらないかぎりは生存本能がはたらき、根強く残る。三大欲求と呼ばれるゆえんだ」 「いや、知ってるけど……。そ、そうか、空目くんもちゃんと男の子だったんだねー…」 ごめん、私誤解してたよー。 何気なく失礼なことを詫びる。 「根拠もなく君にはそういう情緒が欠けているとばかり」 「欠けていないとは言っていない」 「……ハイ?」 「基本的欲求は俺にも存在する。だが、付随するものが欠けている」 欲求に付随するもの。 それは、感情。 長時間カロリーを摂取しなければ身体が空腹感を起こし、エネルギーを摂れと訴える。人は健康な状態である場合、その訴えには往々にして逆らうことができず、食物を口にする。彼はその際に「空腹が満たせて嬉しい」だとか「おいしいものが食べられて幸せだ」などという日常的な感想を抱く機能が自分には欠損していると言う。 いつもの口調で理路整然と説明されて、最初はよくわからないような顔をしていたもそのうち漠然と理解した。 つまり、彼は「お昼寝のときの至福」や「不意に朝30分早く起こされてしまったときの不機嫌」を体験したことがないと、そういうことになる。 「変わっている変わっているとは思ってたけど……。じゃ、じゃあ、機械的に淡々と欲求に従うだけ?」 「生理的機能に組み込まれているとなれば大体は従うだろう。病気や自殺思考でもないかぎりは足りないものを補うことにやぶさかではない。身体がほしいといえば、だが」 「ほしい、とは思うんだ」 「……ああ。欠けた部分を取り戻そうとするのが人間の本能ならば」 まるで本能に組み込まれていなければ、その必要がなければ、いっさいの摂取は行わないとでもいうような口調で、空目は目を細める。遠い場所に視点を置いた目をする。 は彼の言葉を聞きながら、あやめを思い出していた。 空目が『ほしい』と望み、手に入れた少女。怪異としての命の危険を充分に承知していながら、今もなおそばにおいている、かつての神隠し。 ならば、彼はあやめに欲求を抱いたのか。 ほしい、と。 それは異界との接点? 神隠しの能力? それとも、えんじ色の少女自身…? いつか俺が消えたらば頼む、と以前に言われたことがある。 あやめの神隠しに取り込まれてしまったら、あとのことは頼む。お前以外におそらく知覚できる味方側がいない。怪異は本質的に人間を害する、しかし、当分はあやめを手放さない……。 あのときに、はひどく傷つけられた心地がした。 確かに本気の口調でも、が実際にそれを成すと期待していない言葉だったからだ。信用もせずにあんなことを口にした彼を心の底から憎いと思い、そして何が何でも死なせないと誓った。 「それって……ものすごく空目くんらしいけどさ。でも」 ――無理矢理に理屈をつけているようにも見えるよ。 寸前で、声にはせずに喉の奥に飲み込んだ。空目恭一という彼の、あるいは本質を引っ掻く指摘かもしれないと直感したからだ。 代わりに、つい、と寄る。 真っ黒な目は、相変わらず片方が前髪に隠れている。 その雰囲気に変化もない。 もどかしくなるほどの平静さで、至近距離のを見下ろす。 いつも見慣れている無表情、それでもどこか、間にある空気が違う。 茶化して終わりにしようとした流れは、もうどこにもない。 一度彼に結んだ視点が、どうしても外せなかった。 自分が今、どんな顔をしているか想像もつかない。 足りないから欲しいと思う。 身体が、本能が、欠けた部分を求めている。 満たされぬままではいられない。それが、未来を生きていくために一つの生命として果たさなければならない義務、血を繋げていかなければならないための法則。 空腹だから食べる。 眠気を覚えたから寝る。 そんなふうに。 手を伸ばす。それが目の前にあるならば。 こうして、 (目の前にあるから) 触れる。 「………?」 いつものように、低く、冷静に問いかける声。 否、いつもより少し、ほんのわずかにゆっくりと。 触れたいから触れる----むずかしいことなど何もない、自然の理由だと思う。 でも彼を見ていると時々忘れそうになる、それが辛い。自分の命を維持することに、現在の安定した居場所に、何の期待も執着も持っていないかのように写るから。 他人事と変わらない口調で淡々とおのれを分析する姿は、こうして触れ合っていても寒気のような不安感を呼び起こさせる。 心の声が、自覚よりずっと素直に、根拠を飛び越えて叫んだ。 (……お願い、どうか) どうか、どこにも行かないで。 とても言葉には出せない願いだった。こんな根拠も過程もない願いは彼にとっては無意味な要請にすぎない。ただでさえ抑止力を持たない効果をまざまざと見せつけられるだけだ。 だから今は、その闇色の瞳が抵抗を見せないのをいいことに、再び、触れた。 やはり空目は何の嫌悪感も示さずに、ただ一つ、瞬きをしただけだった。 「…………」 二人とも何も言わずに、お互いの顔を見ていた。 あんなにうるさかった蝉の声も、どこか遠い。 無言で、さっき一瞬ずつ触れた、互いの唇を見た。 その唇が、まるで自分のものではないように、どうして、とつぶやいた。 「……どうして避けないの、空目くん」 「その必要がなかった」 まだ息がかかるほどの近い距離で、そんなことを言う。 いつもと変わらない、前髪に隠れた黒い双眸が、逆に問いかける。 「お前こそ、なぜ、こんなことをする」 (――わかんないよ、そんなの) 目の前にあったから、触れたいと思ったから、触れただけ。 理由なんて何もなかった。 けれども、と妙に冷静な部分が答えを出した。 彼には理由のない行動の意味がわからない、きっと。『わからない』ことがわからずに、そしてそれを理解するために、上手に彼なりの理由をつけてしまう。もっともらしい原因と誘発因子と過程と結果に分類して根拠を見つけて、一寸の無駄もなく、ただひたすらに理解しやすく。 それが彼なりの『わからない』ものへの理解の仕方。造りかえることでの存在の肯定。 嫌だ、と思った。 そういう彼の性質はうすうす気がついていたし、間違ったことだともいわない。しかし、さきほどの自分の行為までもを綺麗に理屈づけられるのは、どうしても我慢がならなかった。 理由なんてあってないようなものだった、熱に浮かされた愚かな接触を、 つくりものの理屈なんかで片づけて欲しくない。 とっさに口からついて出た言葉は、それにしても突拍子がなかった。 「……実験」 待て私、ナニを口走る気だ。 内心静かに深く混乱しながら、空目の「何の」とでも言いたげな視線に余裕で頷いてみせる。 あとあとになって考えてもこのときの自分は、まったく頭を使わずに脊髄反射で答えていたとしか思えなかった。まともな思考回路では説明がつかない。 「本能的欲求はあるのに感情が欠けているなんて、君があんまり世にも不思議なことを言うから」 「その真偽を確かめるための実験だったと?」 「そう。本当に君に本能的欲求があるように見えたら、君の言った通り。どうにもこうにも欲求がはたらかないようなら君は嘘つき。結果が出れば実験成功ーってね」 「……物好きなことを」 みもふたもない被験者のコメントに、まあね、と肩をすくめてみせる。 心の中では嵐が暴風域を拡大し、もはやヤケクソである。イヤな汗が背中をつたっている。 空目はその話題にはすでに興味を失ったらしく、それ以上の追及もせず、空になったアイスコーヒーのグラスを手に階下へ姿を消した。 ぱたんとドアの閉まる音を境に、はその場に急激に脱力した。 穴を掘って自ら埋まって当分出てきたくないような心境だった。 (何でこんなことになったんだろう) 今更おのれの行いを振り返ってみても遅いが、催眠にかかっていたとしかいいようがない。半分以上、何か理性以外のものに突き動かされてしでかしてしまったような気がする。 思い出してもおそろしい。 あの空目にキスするなんて…! しかも言い訳が『実験』だときた。 馬鹿だ。アホすぎる。(ていうかそれで納得する空目くんも空目くんだ…) 正直、今すぐダッシュして空目宅を立ち去りたいが、藁にもすがる思いでここまで到達したことを考えれば、それはあまりに無謀な選択だった。時間を置けばきっとよりいっそう次に会ったときにどんな顔をしていいかわからない。 一人で無様に打ちひしがれていると――トン、トン、トン、と階段を上る足音が聞こえてきた。 まずい。時間を置けば置くほど気まずいだろうと予測をつけていたが、実はすでにどんな顔で迎えればいいのかわからない。 しかし、すぐに(…いやいや)と思いなおす。 あの空目がたかが接吻ごときで女の子の対応に困るなど、そんな常人並みの神経を持っているとは到底思えない。案ずるより生むが易し。 となれば十中八九、なにごともなかったかのように振る舞うに違いない。むしろ実際、彼にとってはキスなんて、なんでもないことに違いない。 (……多分、そうなんだろーなあ…) 悩むに値しない、とるにたらないことなのだ、あんな第一次的皮膚接触など。 ああなんてことをしてしまったのだ、と悶えるのも、まず一人くらいのものだ。 一人相撲とはこのことかもしれない。 ――結論。 (忘れよう。) 唇を奪ったからといって何だというのだ。相手はこれっぽっちも困っていない。気にしてもいない。逃げもしなかった。そんなやつが責任取れなんて半世紀前のネンネの小娘みたいな繊細なセリフを吐くとも思えない。 忘れよう。忘れるにかぎる。 何か一過性の熱病にでもかかっていたとでも整理をつけて、記憶の奥深くの部屋に放り込んで鍵をかけて釘を打って貼り紙をしよう。『思い出すべからず』。 良し、と覚悟を決めて、ポーカーフェイス。 いつもどおりの顔のままドアノブを回して入ってきた彼を出迎える。覚悟のかいあってか大した苦労をするまでもなく、途中までは九分九厘成功していた。 途中までは。 黙々とした読書の時間になだれこんだあと、 そういえば、と空目が口を開いた。 それはちょうどが気を抜いたころ。 「例の実験の成否だが……俺も興味がないでもない」 時間差でぶり返された話題に固まる彼女にかまわず、空目はしれっと爆弾を投下する。 含みがあるのかないのか判別のつかない、つまるところ普段どおりの顔で。 「お前に支障がないのならば次回には協力するが?」 むろんのこと、ポーカーフェイスは理解後ものの2秒で破綻した。 |