実は、何となくイヤな予感がしていたのだ。 予定よりもずっと遅れていたし、心なしか鏡の顔色は悪く見える。 このときばかりは自分の生まれを呪う。 「…………来たよ…………」 トイレの個室から出て、ヨロヨロとふらつきながら廊下を渡り、教室の席にくずおれる。 急に座ったためか、グラリと視界が揺れた。 下腹のドーンとした痛みがすべてを物語っている。 指先、足先から身体がしびれていくような感覚。 (――これは、かなり……重いな。今回) どんよりしながら考える。 あまりに腹が痛くて、もはや授業などどうでもいい。 ついでに継続的に具合が悪いと、だんだん喧嘩上等モードになってくる。 今の拙者にはなんぴとたりとも触れることまかりならん、というか……(混乱中) 「……どうした、」 ああ、もうその素敵テノール・ヴォイスを楽しむ余裕もない。 番外編.そして桜の木の下に 「……気にしないで。単なる生理痛だから」 よほど身体が辛いのか、女子としての恥じらいなど何処ぞへと放って、は真正直に言った。 というか、うめいた。 いつもまっすぐに空目を見据える瞳が、今日にかぎっては妙にウツロである。 表情豊かな指先も、健康そうな血色も、今では見る影もない。 そんなを眺めて空目がどんな感想を抱いたか、結局のところは不明だったが、彼は年頃の男子としては照れるでも慌てるでもなく、たいへん適切な助言をした。 教科書を机に用意しながら、冷静に「薬は服用したか」と訊く。 しばしの沈黙のあと、ふるふると首が否定に振られる。 「ならば保健室に行け。その程度は常備薬だろう」 「うん……多分そうなんだろうけど……。私、薬あんまり効かないから……」 飲んでもそんなに意味ないんだー、とつぶやく。 机に上半身を倒して、真っ青な顔で腹部を押さえる少女を見て、やがて空目は一つの結論を出した。 ごまかさずにずばりと訊いた。 「保健室に、行きたくない理由でもあるのか」 「…………」 「本当に辛いはずなら、効きにくい薬でも飲まないよりはましと考えるはずだ。同様に、保健室のベッドで横になるのを拒む道理もない。しかし、オレにはお前が腹痛の演技をしているようにも見えない。 すると残る仮定はかぎられる。教室もしくは授業の欠席を拒否しているか、保健室で休むことを拒否しているか。細かく挙げればきりがないが、大体はこの二つの系統に分かれるはずだ。そしてこの場合より可能性が高いと推測されるのが――」 「……もういいよ。空目くんは鋭いなあ……」 「」 「……うん」 絶え間ない鈍痛の中、くす、とは小さく微笑った。 自分はこんなに絶不調だというのに、いつもどおり絶好調に理論展開する空目が 何だかおかしかった。 効くかもしれない薬を望まない理由。 ベッドで休むことを良しとしない理由。 それはどちらも、保健室へ通ずるからだ。 「……保健室は、なるべくなら行きたくないんだ」 ああいう場所は、ただでさえ出没しやすい学校の中でも、より、溜まるから。 特に害を受けたことはないので気にしなければいいと云えばそれまでだが、ただこうして身体が弱っているときは、『彼ら』の気配を敏感に感じ取ってしまって、そんな場所では少しも休まらない。 頭痛がひどいときにはカラオケに行きたくない、というのと同じ理由だ。 「――怪異か?」 「……君の言うような、怖いものじゃないよ。もっと……弱い、というか。気配の薄いやつ。普通に、そこらへんにもいる」 「何?」 「……ただ、保健室にはもっといっぱいいるから……行きたくない。……うるさいんだ」 さわさわと気配だけをのぞかせて、耳もとでささやく 内緒話のように隠れながら、隠しながら、 さわさわ、さわさわ 意識の彼方から引き戻して、 私の眠りを、そうやって、邪魔をして ……、…… 「……?」 空目がひとつ瞬きをした間に――の姿はそこからなくなっていた。 ほんの一瞬の中の鮮やかな消失劇に、空目は眉を寄せた。 後ろにひかえて先ほどの光景に立ち会ったはずの少女に低く尋ねた。 「――あやめ。今、何が起こった?」 戸惑ったような沈黙のあと、えんじ色の少女は、おすおずと空目を廊下の先へと促した。 空目はすぐに授業開始時刻となることを微塵も意に介せず、あやめの導きのままに教室を出る。 こっちです、という小さな声が示すとおりに廊下を歩いた。 この時点になっても、彼の嗅覚には特に異常が感じられない。 けれども、確かにが目の前から消えうせたことは事実だった。 中庭へと通りかかった際、やはり魔女はいた。 蓮の葉の浮かぶ池のほとりに、ただ何をするでもなくたたずんでいる。 十叶詠子。 「――こんにちは。“影の人”に“神隠し”さん」 「…………」 澄んだ微笑みを向ける詠子を一瞥した空目は、お前に用はないとばかりにさっさとその場を離れようとした。 魔女の操る言葉に関わった場合、大抵ろくなことがない。 しかし、次の彼女の言葉には、足を止めた。 「あの子を探しているの? まだ目覚めていない、領域を守る者」 「――何を知っている?」 「少ししか知らないよ。だって、彼女はそういう者だから。遠くからでもわかるけど、触れてみないとわからない」 「…………」 相変わらずの様子に聞き出すことをあきらめて、再び空目はきびすを返し、中庭を通り過ぎる。 その背中を、魔女の楽しそうな声が追った。 「きっと桜の木の下にいるよ。彼を、さっきそこで見かけたもの。――彼女によろしくね」 桜並木が通り過ぎる風に枝を揺らす。 暦の上では夏になり、その枝に淡い色の花はない。 裏門へと続く細い道筋に、並列する桜、桜、桜。 ただ青々とした緑葉がかすかな音を重ならせる。 「……どういうつもり?」 「何が、かね?」 「……へばってた私を教室からこんなとこに呼んだのはなんで?」 「それが君の望みだったからね」 一本の桜の古木の下に、二人の人影がいた。 一人は幹にもたれかかり、一人は対峙するでもなくそばに在る。 「……私の?」 「そう。君の強い願望。不快なる気配にわずらわされない空間を望んだ結果、私が叶えた」 「望んだって…。それは確かに、いいかげん腹痛くてヤケクソでそうなったらいいなあって…って、あれ…? ……そういえば、ここって――いないね?」 「それが君の望みだったからね」 もう一度、彼は言った。 枝葉の作る昼間の影の中で、彼の周りだけが異様に暗い。 光を侵食するような暗黒をまとって、神野陰之はくつくつと笑った。 怪訝に思った感情を隠そうともせずに、は「…よくわからないんだけど」と首をひねった。 「私が望んだから、この、静かなところに連れてきたの?」 「それは少し事実からは異なるね。私がここに、静寂を作ったのだよ」 「……いや、その。そうじゃなくて。私が望んだからええと、――呼んだ、の?」 「そのとおり」 神野の答えにはますますわからないという顔をした。 彼の言葉を信じるならば、彼はただの便利屋君だ。 そんな単純な男だろうか、この目の前のサイコさんが。 「私は名付けられし暗黒。資格を持ちえた者の強い願望を叶える者。君はたやすく資格を維持し続ける稀有なる人間だ。私は、その願いを叶える」 「……でも、聞いてるとうさんくさくて仕方ないよ」 正直に指摘すると、暗黒をまとった男はそれ以上何も言わなかった。 ただ、ひどく楽しげに唇を歪める。 彼独特の暗鬱な気配が、じわりと濃くなった。 もそれ以上つつくのは止めて、ため息をひとつ、幹に寄りかかり直した。 神経を逆なでする『彼ら』の気配はなくなったものの、生理痛がひどいことには変わりがない。 今も、そう、下半身が鉛のように重苦しい。 痛い……痛すぎて今ならオレは誰の挑戦も受ける。(喧嘩上等モード続行中) やがて立っているのも辛くなり、ずるずると地面に座り込んだ。 この際、少しくらいスカートが汚れてもかまいはしない。あとで砂を払えばいい。 (――そういえば、空目くんはどうしたかな……) ふと、なりゆきで教室に残してきてしまった黒づくめを思い出した。 記憶が確かならば、思いっきり会話中だったはずだ。 突然自分がパッといなくなってしまって、泡を食って探しているかもしれない。 (……探すわけないか。空目くんが) 彼の他人に干渉をしない鉄壁な姿勢は、他人に感心がないからだ。 感情を乱すことがないのは、はなから何も期待していないからだ。 徹底した個人主義。 そんな人間が、クラスメイトが一人消えた程度で、自ら事件に首を突っ込むとは思えない。 ああ、でも。 底の知れない、あの瞳を知っている。 前髪に隠された、ゆるぎない双眸。 もしかしたら、と思う。 もしかしたら―― 「来たようだね。君の願いを上回る者」 の思考に重ねるように、神野が言った。 紗がかかったようだった校舎の風景が、急に鮮明になる。 雑多な『彼ら』の気配を遮断していた膜が取り払われて、再び感覚に触れてきた。 同時に、一つの黒が視界に入り込んだ。 「……。やはりここか」 断じて見間違いではない空目恭一がそこにいた。 桜の幹にぐったりと寄りかかる少女にわずかに眉根を寄せ、周囲を警戒するように一瞥する。 斜め後ろにあやめを付き添わせて、うずくまっているのそばに腰を折った。 真っ黒い髪が、彼の顔を隠す。 「――、無事か?」 「……うん、平気」 「何が起こった?」 「何がって……」 気がつくと、神野陰之の姿はどこにもなかった。 立ち去る前の彼の最後の言葉を思い出す。 空目のことを『君の願いを上回る者』と。 あれは――つまり、『彼ら』のいないところに行きたいという自分の願望よりも、空目の探し出したいという願望が強かったと――だから神野が遮断を解いたと、そういうわけなのだろうか。 「……説明はちょっと、むずかしいな。……ねえ、空目くん」 「――何だ」 「いきなり私がいなくなったからびっくりして、探した?」 「その質問はさほど重要ではない。探さなければここへ来ることもなかったし、こうしての前にいることもなかった」 「……そっか」 いつもどおりの受け答えに、口元がゆるんだ。 さっきまでの自分は、体調の悪さにつられて思考まで病んでいたのかもしれなかった。 彼はとてもわかりにくい部分も多いが、冷血人間ではない。 みなと同じような感情を持ち得なくても、決して何の思いもないわけではなく。 「空目くん。ちょっと、ごめん…肩、かして」 「…?」 ことん、と置いた肩口に、額から体温が伝わる。 彼が少しうつむいた仕草で、その黒髪がの頬をサラリとなでた。 かすかに香る彼の匂いに目を細める。 貧血かと空目が尋ねるので、そうだと答えておいた。 事実、貧血であることは確かだし、衝動的に彼に触れたくなったのを隠したかったのもあったから。 しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。 「…ありがと、少し楽になった」 「かまわん」 彼の肩から頭を離して、ゆっくり立ち上がる。 充分注意しながら身体を起こしたつもりだったのだが、それでもグラッと視界が揺れた。 とっさに踏ん張ろうとしても、肝心の足に力が入らない。 「……っ!」 「気をつけろ」 「――あ、ご、ごめん」 黒い腕に引き止められて、何とか地面に激突するのをまぬがれた。 さすがに細身でも男の子の力なのだと気づいて、ひそかに動揺した。 そんなことは、あたりまえなのに。 危なっかしくて見ていられんと、空目は腕につかまるように言った。自分でも正直まったくもって危なっかしいと自覚していたは、ありがたく左腕をかしてもらうことにした。 ――こんなところを誰かに見られたら、また変な噂が立つのかなあ、と思いながら。 |