あなたへと手をのばした できるだけ近くへ この願いが届くように 「――お前ならば、そう言うと思った」 「……確信犯?」 「さあ、な」 ゆるやかに目を細める。 口元が少し笑ったように見えたのは、きっと、気のせいだった。 6.彼女の誓い 夏休みを間近にひかえた七月のころ。 学院内はどことなく全体的に騒然としていた。まんべんなく散りばめられた焦燥感とでもいおうか、誰も彼もがしばしば真剣な目つきをする。 それの理由を、はとてもよく知っていた。 すべては最近になってからだ。 コピー機の前に行列が絶えず、生協のルーズリーフが売れまくり、異様に授業の出席率が高い理由。 普段はいきかわない交友関係が活発になり、顔色の悪い生徒も校内に頻繁に見られる始末。 理由はただ一つ。 定期テストである。 「…………」 今もまた、食堂のテーブルに頬杖をついてコーヒー牛乳のストローを吸う彼女の横を、ふらふらした足取りの生徒が通りすぎていった。あれは少なくとも一日は徹夜している。それに比べて、この男は何なんだろうかと、は半ばあきれたように向かいの席に座る友人を見た。 今日も今日とて黒づくめ。 おてんとさまが西から登ったとしても絶対に取り乱さない無表情。 自分の世界というものを作り上げすぎた個人主義の権化。 空目恭一はいつも空目恭一である。 の記憶が確かならば、彼は次の授業に筆記テストをひかえているはずであった。 事前に教師が予告したとおりならば、2000字程度の論述になるはずである。 この論述というのは感想文の入る余地がないので、知識と思考と論法によってのみ構成される。 無駄な脚色を一切落とし、論点をつきつめ、理論を煮込んで、仮説の大前提において展開させる。重要なのは是非ではなく、その論理性――とか何とか担当教師は熱弁していた。 要するに知識がなければ何も書けんぞ、というわけであって。 同じテストを迎える予定の周囲の生徒が猛烈に教科書をめくっているのは、無理からぬことなのだ。 対して、空目はゆっくり淡々とページをめくる。 その指に焦りはなく、深い色の瞳はいつもと変わらず冷えている。 テストなどはなから関心にないと雄弁に語る態度である。 なぜならば、読んでいる本の題名が――『屋根裏に誰かがいるんですよ…』だ。(何だその本は…) テストに焦る常人の浅薄さを超越した態度に、思わず尋ねずにはいられない。 「空目くん……テスト勉強はいいの?」 「――人のことは言えんだろう、」 「ええー。私はあといっこだけだもーんv」 「…………」 実はの次のテストは、空目と一緒なのである。 ぶりっこしてかわいく言ってみたが、黒づくめは無愛想に眺めただけだった。 彼はこういうときに、ものすごくノリが悪い。良くても困るが。 気を取り直して、コーヒー牛乳を吸う。 確かにも周囲のようにテスト勉強をするべき立場なのだが……他の苦労している生徒には悪いが、特に困難を感じていないのだ。 確実に平均点以上をとれる自信がある。 「だって、民俗学の授業だし……」 「……確かにな。今さらだろう」 めずらしく同意する空目に、もうんうんと頷く。 民間伝承系の書物を片っ端から読み漁っている空目と、彼ほどではないにしろ大迫栄一郎を蔵書にしていたにとって、民俗学とは馴染みの深い学問だった。 高校の授業で触れる程度の知識は、二人にはすでにそなわっているのである。 残りのテストの数を空目に訊くと、彼はお前と同じだと言った。 そっか、と軽い返事をして、窓の外をなんとはなしに眺めた。 窓ガラスを一枚へだてて、蝉の声が余韻のように響いていた。 想像通り、論述テストはつつがなく終了した。 だー。と並んでいるレポート用紙の文字を軽く斜め読みをして、こんなもんかなと教卓にて監督している教師に提出した。 カリカリ鉛筆の音だけが静寂を染めている中で、一足早く終わってしまったの退出の物音がひどく響いた。ペンケースをかばんにつっこみ、ジッパーを閉め、出入り口の引き戸を開き、閉じる。 教室を出る直前に、いまだ机に向かって文章を書きつづる空目の姿が見えた。 どうせあの怒涛のような持論をレポート用紙にぶちまけているのだろう。 「……よっしゃ、終わったー…!」 人気のない廊下で、思わずガッツポーズをかます。 テスト期間を無事消化したあとのこの清々しさは、学生ならば誰もが身をもって知っている爽快感だろう。 ちなみに彼女の中での『よっしゃ終わった!』は『よっしゃ遊ぶぞ!』と同義語である。 テスト期間中にどさどさ溜まった鬱憤を晴らすときがやってきた。 手始めに食堂に行って自動販売機の冷たいジュースでも一杯、と顔をゆるませながら、くるりと身体を右方向に向けると――えんじの色彩が目に映った。 いつも空目の斜め後ろあたりで見かける少女。 教室の後方出入り口のそばに、ハチ公よろしく、じっとたたずんでいる。 「あやめちゃん…、空目くんを待ってるの?」 「……あ……えと、はい……。……そうです」 ひかえめに肯定する少女に、はしばし何かを考えていたが――ふわりと笑った。 やたらと存在感の希薄なあやめの手を、間違うことなく、がっしりとつかむ。 驚いた表情でぱちくりと瞬きするところへ、万事OKとばかりに言い放った。 「あやめちゃん、いっつも振り回されてるんだから、たまには空目くんに迎えに来させてみよう?」 ……え? あの、その。 わたわた慌てる少女に「空目くんが急いで迎えにくるところ、見たくない?」と悪戯っぽくが訊く。それを否定できないあやめは、結局、彼女の導くままに待ち場所を離れた。 何となく、というこの人に自分は逆らうことが出来ないと感じていた。 厳密には逆らえないのではなく、逆らいたく、ない。 つないで引いてくれるあたたかな手を、とても自分からふりほどけない。 「ガリガリ君おごってあげるねー」 ガリガリ君が一体どこの誰なのか、全然わからなかったのだけれども。 ガリガリ君は壮絶に迷い悩んだすえ、ソーダ味をセレクトした。 やはり古典的といわれようが王道は外せない。 食堂のはしのテーブルにいいかげんに座りながら、がりりとかじる。 その彼女の向かいには、コーラ味を両手にもって途方にくれるあやめがいた。 の食べるさまと自分の手の中のものを見比べて、はげしくおろおろしている。 「……食べないの? え、あっ、まさか……そっか、食べられない?」 「……あの、多分……。……こうなってから、何かを食べたこと、ありませんし」 があわてて、あやめもあわてる。 ごめんと謝りそうになって、はあやめの『こうなってから』という言葉にはたと止まった。 それはつまり、少なくとも昔は食事をしていたということなのだ。 「じゃあさ……いや、変なこと訊くけど。……そうなってから、食べようとしたことは?」 「えっ……?」 思いもよらないことを訊かれた、というふうに、あやめが目を見開いた。 考えたこともなかったと顔に書いてある。 その表情を見ていたとともに、あやめは、食べようとしたことすらなかったのだと気づく。 とすると――やはり、その先まで考えずにはいられないだろう。 実は……本当は食べられるのではないか? と。 「…………」 「…………」 困惑と緊張が二人の間にただよった。 二本のガリガリ君をはさんで、もあやめもそれをじいいと凝視する。 の無言のリクエストを感じ取って、またあやめ自身も気になるところでもあり――神隠しの少女は、ついに決意を固めた。 ガリガリ君コーラ味を握りなおし、はくっと口に含む。 立体長方形の冷菓の風味が、じわりと口の中に広がった。 「か、噛むんだ! あやめちゃんっ」 「…………っ」 しゃりっ。 カキ氷状の単純な味を、ひとかけら、噛み砕いた。 のジェスチャーに従って、ごくんと飲み込む。 あとはただ、呆然とするばかり。 「……あやめちゃん……! 食べられるじゃーん!」 「……わ、わたし……」 なぜか我がことのように喜ぶに、口元を押さえながらあやめは目を丸くする。 怪異の一部だと認識されていた少女が、まるで生身の生き物のように食べ物を口に出来るなんて。 それがどれほどのことだか、きっかけを作って促したはきっとよくわかっていない。 あやめは少なくとも、怪異としては特異的であると理解していた。 そして、また――テストを終了させて食堂へと戻ってきた空目恭一にも。 めずらしく瞠目して言葉をさがしているらしい様子に、気づいたが「持病の癪?」とつっこんだ。 「――わけがわからんな」 本当に理解できていないときの空目の感想は、しごくシンプルである。 これがまだ仮説のひとつやふたつも成り立っている状態ならば、不完全な理論をはぶいて黙り込んだり怒涛のごとしに説明しまくったりと色々忙しいのだが、まったくもってさっぱり見当のつかない状態の場合、たった一言である---『わけがわからん』。 こんなところが一部、と空目が似ているところだ。 「そんなに深く考えなくてもさー。あやめちゃんが実はアイスを食べられたんだよ!…で、まずいの?」 「まずいまずくないの問題ではない。神隠しが食事を摂るなど、手持ちのカードでは説明がつかん」 「……まずいんじゃないのよ」 いつものように裏手で軽くつっこみながら、ガリガリ君ソーダ味の棒をぺろりと舐める。 隣にちょこんと座るあやめも、一生懸命に慣れないアイスと格闘している。 もうそろそろ食べ終わりそうだった。 そんな微笑ましい姿をほのぼのと眺めていて、ふと思う。 その思考をそのまま、つい口に出していた。 「あやめちゃんはもう……純粋な『彼ら』じゃないのかもしれないね」 ――何? と、とたんに空目に聞き返される。 たあいもない独り言を聞かれてしまったような気恥ずかしい心地がして、は「いや、ちょっと思いついただけなんだけど」と言い訳する。 「あやめちゃんみたいな……何ていうか、その、人間じゃないたぐいのコがさ、特定の誰かに名前をもらって、ずっとその人のそばにいる……なんて、そんなにあることじゃないでしょ? 私もそんなに知ってるわけじゃないけど、見たことないもん。お互いを知ってるのにそばにいる、人間と『彼ら』なんて」 「…………」 「少なくとも、私はびっくりしたよ。人間とセットでいる『彼ら』も、たまーに見たことあったけど……そういうときは、『彼ら』の気配がすごく強くて……暗い、っていうか。人間のほうに侵食してるみたいな感じ。――わかる?」 感覚的な話で申し訳なく思うが、こればかりは説明がむずかしい。 とりあえず空目が口を挟む気配もなく頷いたので、先を続ける。 「でも、空目くんとあやめちゃんは……違うよね。あやめちゃんが空目くんの気配に依存してるっていうか……私の知る限りそういうわけじゃないみたいだし。うん、違う。……ああっ、でも全然うまくいえない。だから、つまりね」 もどかしさにアイスの棒をバキッと折る。 ひたと空目の双眸を見据えて、言葉をさがしながら思い切って言った。 「――違うって時点で、あやめちゃんは違ってきてるんだよ。もうそのまんまの『彼ら』じゃない。 もしかしたら、空目くんが……変えたのかもしれないね」 いや、どう変えたのかって言われても困るんだけどさ…。 自信なさげにボソボソ付け加えつつ、はチラリと空目の反応をうかがった。 彼の前髪が邪魔だった。 その黒い目が、整った眉が――どんな表情をしているのか、わからない。 「……怪異が人間の気配を依存、または侵食と言ったな?」 「うん……。言った。」 「----かつて、俺も、このあやめに消されかかったことがある」 いち。に。さん。 たっぷり三秒かかって、はすっとんきょうな声をあげた。 「…………えええっ?」 うっそー? と訊いても、嘘ではないと冷静な声が返る。 そばにいてアイスの棒を手にしたあやめが、しゅんと小さくなっている。 「あやめを手に入れたばかりのころだ。今年の四月……あやめの性質、神隠しに一度は食われかかった」 「えっ…いや、待てい、そんなサラッと…! 平気だったの? もう平気?」 見ればわかるだろうと言わんばかりに空目は轟然と無言である。 こんなところが時々たまにとてつもなく憎たらしくて、そのうっとうしい前髪をキティボンボンで縛りたくなる。 「おそらく、それが怪異が怪異たるゆえんなのだろうな。本質的に、人を害する。お前の言ったように、侵食だの依存だのと、人間のありようを歪めるはたらきがある。あやめもまた---例外ではないというわけだ」 「……でもさ、それって……あやめちゃんの性質の話で、あやめちゃんの意思じゃないんだよね」 「ああ――そういう可能性もあるな。だが、どちらにしろ危険ということに変わりはない」 あやめは、まぎれもなく怪異。 人間にとって危険な――怪異。 彼はそれを充分に承知したうえで、そばにおいている。 怪異として存在していた少女に名を与えて、居場所を作って。 ほしかったのだと以前に聞いた。 神隠しという少女を、危険と知っていても手に入れたいのだと、彼が言った。 胸の奥が棘を飲み込んだように痛むのは、なぜだろう。 理由なんて、知りたくなかった。 今、こんなときに知りたくない。 「そっか。わかってても……あやめちゃんが必要なんだね」 「ああ。当分のところはリスクを背負ってでも手放せんな。その必要がある」 「……そっか」 もし、と空目が気まぐれのように続けた。 次に聞いた言葉を……はしばらくずっと忘れられなかった。 「もしも俺がいつか、あやめにより消えたとしたら――あいつらへの説明は、頼む」 絶句するに、静かに「お前以外に、おそらく知覚できる味方側がいない」とまで言う。 いつもどおりの、無感情な声。 本気なのだと悟った。 彼がいなくなってしまったあとにあの文芸部の面々へと説明しろ、と。 空目はもう戻ってこない、あやめが『あちら側』へ連れて行ってしまった、 だからもう、彼をさがす必要はない、と。 そう伝えろと言っている。 決断するより先に、声が答えを決めていた。 きっぱりと言い放つ。 「……なまけないで自分で言いなさい!」 ええい、前髪が邪魔だわと手を伸ばして、髪をのけた。 遺言めいた確実に文芸部の面々を落ち込ませることになる言葉を、わざわざ届ける趣味はない。 「前々から思ってたけどねっ、空目くんはめんどくさがりよ! なんで私がそんな、縁起のわるーい伝言をしなきゃならないの。……ああ、もう、言わなくてもわかってる。強要はしない私の自由だとか言うつもりなんでしょ。でもね、一回それを聞いちゃったら、私が結局だまったままでいられないこととかわかってるくせに、しれっとそんな、ものわかりの良さげなセリフが出てくるんだから最低っ。知ってる、そーゆーの確信犯て言うのよ!」 普段のお返しとばかりに怒涛の勢いでまくしたてるは、くそぅっ、と目じりに浮かんだ涙を乱暴にぬぐった。 なんで自分がこんな愛想もデリカシーもない、しかも恋人でもない男のために泣かなきゃならないんだと、心の底から悔しかった。 今もまた興奮する自分をしげしげと冷静に眺める空目がいる。 わかっている、こういう男だ、こういう男なのだ。 それでも、見捨てられない。 きっと、自分は。 「……私しか知覚できないっていうなら、私にしか出来ないことがあるはずだよね? なら、私が空目くんの助けになるかもしれないでしょ」 「、それは」 「――誓うわ」 我ながら、おそろしくお人よしだとは思う。 怪異に近づこうとする彼に対するこの誓いの意味を知っている。 それでも、決めてしまったんだから仕方がない。 「私の能力と君の美貌とあのときの誓いにかけて! ――私は、君を無駄死にさせない」 、本気で本気の宣誓であった。 本人はこの上もなくマジだった。 「…………」 「待ったなし。この三つが損なわれない限り、空目くんの遺言なんてまったくの無意味なんだから」 「いや、そうじゃない。実は、あるいはと思っていたが」 「……なに」 彼の前髪をのけていたの手が、そろそろ疲れてきていた。 空目は常よりもクリアな視界に目を細める。 「――お前ならば、そう言うと思った」 無感情な声だった。 だが……かすかに、ほんのかすかに、見慣れない眼をして。 「……確信犯?」 「さあ、な」 幻のように消えうせてしまった表情に、きょとんとする。 今ではまったく見るかげもない。 あれは、まるで―― あわててパッと手を離した。 意識してか無意識にか、彼がふいに繰り出した反則技に度肝を抜かれた。 笑ったように見えたなんて、目の錯覚かもしれないのに。 (……やられた……!) 自覚まで、あと少し。 |