それは、寝込んだテッドの熱がようやくおさまりかけてきたころ。 ベッド側で看病していたは、始めよりもずっと安らかな顔で寝息を立てる相棒を眺めているうち、どうしても今すぐ一人になりたくなって――そっと窓から姿を消した。 ひらりと人影が飛び出したのは一瞬。 (……?) 偶然それを目撃したのは、親友の見舞いにおとずれようとしていた解放軍軍主だけだった。 空の贈り物 は急いでいた。 できるかぎり遠くへと行きたかったが、転移魔法は使えない。すぐ近くでそんな魔法を使ったら、ただでさえ眠りの浅い相棒が起きてしまうおそれがあった。かといって、階段やエレベーターを使う気にもなれない。 今だけは、誰にも会いたくなかった。 迷わず窓から飛び降り、ときおり城壁を足場に体勢を整えて、水場そばの岩陰に着地する。日当たりが悪く、増水すれば湖水に沈むその場所は、今にも泣き出しそうな曇天の空も手伝ってのねらいどおり、誰の姿もなかった。 てごろな岩に寄りかかって座り込む。 ――そこまでが、限界だった。 「……、っ……」 唇を噛み締めたが、こらえきれず、かすかに息が乱れた。 両手を広げてみれば、勝手に指が震えてくる。ぎゅっとこぶしを握りこんで、(…ああ、やっぱり) と自覚しながら、せめて声を抑えるために膝の間に顔を伏せた。 ――たまに、発作的に、こういうふうになるときがある。 真の紋章使いとして、忍の技を持つ者として、この世界の人間として生きていても、時折こうやって処理しきれない反動が来る。 の心の奥の、もっとも根底には、地球で育った18歳の少女がいる。 武器を持って戦ったことも、魔法を使ったことも、人を殺したこともない、平穏の中でのんびり過ごしていた自分が、の自我の大前提に存在する。 毎日決まった制服を来て、学校に行って、授業を受けて。悩みごとといったら次のテストや進路のこと、楽しみなことといったらお気に入りのシリーズ小説の続きやTV番組。 そんな少女が、ごくまれに、堪りかねたように小さくつらいと訴える。 普段はめったに起きない齟齬が、緊張の連続の後ふと気を緩めた拍子などに、隙をついて起こる。今回のように。 ひどく、泣きたくなるのだ。 (本当はつらい。本当はいやだ。こわい。…そうだね、わたしはもともと単なる高校生だったから) 戦えるようになっても、人を殺せるようになっても、それが必要なときもあるとわかっていても、この齟齬はこの先もずっと付いてまわるのだろう。半ば仕方のないことだとあきらめてもいるし、いつまでも根本的に変わらない自分に安心することもある。 こんなことは相棒にすら言えない。 打ち明けるとするならば何もかも始めから話さなければならなくて大変面倒くさ……もとい、何より――心情的に、言えないのだ。 あくまでも単なる私情だが、せっかく相棒におとずれた平穏をくもらせたくなかった。あの童顔300歳は、ああ見えて涙もろいタチだから、余計に言えない。テッドが泣くところなんて見たくない。それに、どうせこんな不安定な気分は、ほんの一時的なものだと経験的にわかっている。 (日が暮れるまで……。暗くなったら、戻ろう) 夕飯どきになったら、誰かががいないことに気づくかもしれない。だから夕暮れ前に元通りテッドの看病役におさまっていれば大丈夫だ。 タイム・リミットを自分に言い聞かせて、念のため気配を消す。 しかし。 突如ふわっとした風が吹いて、その場に二人の少年があらわれた。 ――ティルとルック。 (し、しまった) さしものも、風の魔法使い対策は何もとっていなかった。まさか個人主義の彼が探しに来るとは思わなかったのだ。しかも、軍主を連れて登場するとは。 「ちょっと……。何が何だか知らないけどね、いつもいつも、君とティルの下らないお遊びにこの僕を付き合わせるのもいいかげんに…」 どうやら軍主から探索命令を受けて断りきれなかったらしいルックが、開口一番に苦情を申し立てるべく喋りだすが――言葉の途中で、ギクリと止まった。 ティルもまた、の顔を見て、「…?」 と驚く。 彼らの目の前で、彼女の漆黒の瞳から、ほろりと涙がこぼれていた。 よく見れば、の目元は赤く、頬は濡れていた。 「……あ。いや。……ご、ごめん。…何か、わたしに、用があった?」 まんまと目撃された気恥ずかしさから、はうつむいて手の甲で素早く涙をぬぐった。 こんなことでごまかされちゃくれないだろうなあと思いつつも、何事もなかったかのように用件を尋ねてみる。頼むから何も訊いてくれるな、と示唆したつもりでもあった。 たとえば、これが正軍師あたりであったら、の意図を悟って見なかったふりをしてくれたのかもしれなかったが、果たして、軍主の対応は、一味も二味も違った。 すっとティルから表情という表情が消えうせる。 今度はがギクリとした。――この半端でない迫力。本気のティルだ。いつも柔和で優しげな “解放軍軍主” と違って、この彼はめったにお出ましにならないわりに問答無用に威圧感満点である。心なしか、隣のルックでさえ、さりげなく距離をとる始末。 そのティルが少し眉をひそめて、の目尻に残った涙に触れた。思いのほか優しい仕草だった。どんな言葉よりも雄弁に心配されたような心地になって、は内心とても居心地が悪くなる。 「……どうした、」 びっくりするほど静かな声だった。 こういうのはずるくないか、とは思う。ティルの言葉に飾り気がないぶん、こちらも取り繕うことがむずかしい。貴族然とした普段の調子だったら、いくらでも煙に巻けるのに。 困り果てたは、仕方なく 「…あと一時間」 と言った。 「あと一時間ほしい。そうしたら落ち着いて説明できるから」 「…………」 「たいしたことじゃないんだよ」 の顔をじっと見つめていたティルは、いいや、と首を振った。 「駄目だ」 「…なんで」 「一時間もあれば、君はおそらく自己完結するだろう」 確信的な物言いに、が目をみはる。 「顔に書いてあるんだ。他でもない君が、そんなふうにわかりやすく。……それこそが、俺が見逃せない理由だ」 ティルの声は、少しも茶化していなかった。 かえっては途方にくれた。 いつもの自分だったら上手く誤魔化せたかもしれない。 でも、今の自分は――不覚にも、近年まれに見る不安定な精神状態だった。 要するに、一時的に単なる女子高生へと立ち戻っていた。かつて、もっとも心が柔らかく未熟だったころへと。 「」 「……観念したら、」 駄目押しに風の魔法使いまでもが、はなはだしく面倒くさげにティルの味方をする。あんなに嫌そうにしていたのに、しぶしぶながらも、ひとまず付き合う気になったらしい。 ――果たして、は動揺のまま、頬をあざやかに赤く染めた。 次に、おのれが赤面してしまったことにも動揺し、「うん、その、さ、散歩してくる…!」 と、なにひとつ微塵も誤魔化せていないセリフを口走って、あとはもう脱兎のごとく逃走した。 もともと 『避難』 を最上の選択として戦闘形態を組んできたである。 一度逃げると決めたらば、誰よりも何よりも早かった。 軍主が追う間も、風の魔法使いが拘束する間もなく、鮮やかな転移でかき消える。 残されたのは、驚くやら呆れるやらの少年二人。 「……。…ちょっと、何なわけ、あれ? 何か悪いものでも食べたの? 病気? ――しかも、今度は探索かけても引っかからないよ」 「が本気で隠れてるってことか…」 「……ふん。眠りの気配は一風独特だけど、僕はそれほど知り尽くしてるわけじゃないからね。あっちに大人気なく逃げられたら、発見は手間だよ」 プライドにかけて “できない” とはいわないルックだったが、よりにもよって彼が “手間” と表現する以上、それは限りなく困難なのだろう。 ティルはほんの数秒ほど黙り込み、すぐに 「ルック」 と口を開いた。 とある方法を提案すると、緑衣の魔法使いは少し眉を上げた。それは彼なりの感心の仕草だったが、あいにくと余人からは非常にわかりづらく出来ている。 「なるほどね…。ふうん、なかなか悪知恵はきくじゃないか」 「いや、ルックに言われるほどじゃない」 「……どういう意味」 そうこう言いつつも、二人の体がたっぷりと魔力の乗った風に包まれる。 ルックの操る移動魔法。 特有の違和感ののち、彼らの視界がふっと切り替わった。 ティルとルックがたどりついたのは最近増築された最上階の一室だった。 軍主室の隣に位置する、他の部屋よりも狭いスペース。 ちょうど寝台の上でぼちぼち回復したての身を起こしていた部屋の主は、「ぅおわっ!」 と突然あらわれた二人組みに元気な声をあげた。 「……って、なんだ、お前らかよ。ノックくらいしろ、ノックくらい。無礼なやつらだなー」 ぶつくさこぼしながら、金茶の髪の少年は茶器の用意を始めようとする。 その手を、ずびしとティルが止めた。 「テッド。今、の居場所はわかるか?」 「……は?」 「散歩へ行くと言っていた。一時間後には戻るらしい。だが、それでは遅い」 テッドは釈然としない顔つきになった。 いまいち事情が飲み込めない。いずれ帰ってくることがわかっているのに、なぜに無理に探す必要が――そうつっこみかけて、テッドははたと思い当たる。 「散歩……。そういや、あいつ、今までにも何度か散歩だってほざいて急にいなくなることがあったような」 「……テッド…」 「な、なんだその非難がましい目は。しょーがねーだろ、『女性には色々と都合ってものがあるんだ』 って言われたら、なんかおかしーかなって思っても引き下がるしか……!」 がぜん反論するテッドだったが、ティルとルックの同情は得られなかった。代わりに、どことなく生温かい眼差しが向けられる。 「そ、そんなことはともかく。……もしがその “散歩” に出たんだとしたら、もう近くにゃいないぜ。軽く国境は越えてるとみていい。いつだったか、こっそり気配を探ったら、あいつ…群島とかクールークとかファレナとか……ものすっげー遠くで見っけたこともあったから…」 でも、そのうち帰ってくるし別に――とのんきに言いかけたテッドは、じろりと向けられた親友の目にうっとなった。見れば、ルックの視線もだいぶ冷ややかだった。否、彼の場合はいつもキッチリと冷ややかなのだが。 「テッド、もう一度言う。を探してほしい。必要ならソウルイーターの力を借りてもかまわない。あのとき、ウィンディに支配されつつソウルイーターに遠隔操作を仕掛けるなんて真似をしたお前なら可能だろう」 「……で、できるけどさ。なんでまた、ンな焦ってんだよ? ああ見えてもは、ちょっとやそっとのことじゃあ…」 「は泣いてたんだ」 瞬間、ぴた、テッドの表情が止まった。 「俺たちが偶然見つけるまで、城の裏で隠れて泣いていた。あと一時間したら説明すると言って、それで姿を消した。最後まで訳は話そうとしなかった」 「……まったく、このリーダーがどうしても追いかけるって言ってきかないんでね。ホント僕はいい迷惑だよ。この際だから転移だけはこっちでやってあげるけど、眠りの紋章の気配に一番なじみが深いのはアンタだし、第一、『親友』 と 『相棒』 なんだろ。本当なら全部アンタがやって然るべ…」 然るべき、とルックは言い終えることができなかった。 やおらテッドが、がし、と二人の手首をものすごい力でつかんだためである。見た目だけは幼げな造作を残す少年は、その碧眼で継承者組を見据えた。――ものすごい形相だった。口元はうすく笑っているのに、目がまったく笑っていない。 「……何。ちょっと。急に」 「ようやく俺が急げと言った理由がわかったか」 「馬鹿野郎ぶつくさ言ってる場合か! ここは現行犯でとっつかまえないと、のことだ、のらくら言い逃れして煙に巻くに決まってんだろ……!」 さすが、長年煙に巻かれてきた経験者の言は説得力が違った。 すでにソウルイーターに意識を合わせた童顔300歳は、あっという間に濃密な魔力をまとわせる。そこに描かれた不可視の形へ、大きなため息をついたルックがおのれの魔力を過不足なく覆った。 「行くぜ――ナ・ナル島だ!」 |