「――壁です……。透明な、壁があります」

 あやめは小さな声で、めずらしく断言した。
 空目がけわしい双眸をさらに鋭く細め、に「心当たりは?」と訊く。
 あると思うわけ? とが即座に返した。彼女とて初耳だった。

カレー三杯をかけてもいい

 わりと本気で言ったのに、空目は平然とそれを黙殺した。














10.視えない領域



















 おいしいカレーが一晩たって、さらにおいしくなった朝食時。
 少人数で大鍋料理をこしらえたあとの必然として、昨夜に引き続き献立はカレーである。飽きのこないようにと気を回したは微妙に中身を変えた。

 昨夜は王道でカレーライス。
 今朝はカレートースト。あらかじめ細く切った食パンをカリカリに焼いて、それをスプーン代わりにカレーを食すのである。さらに、適当にちぎったレタスと輪切りのキュウリにミニトマトを乗せたサラダ、レトルトのコーンスープが加わる。
 食後はすきとおったアールグレイのアイスティーを用意した。

 ちなみに昼食はカレーうどんにしようと思っているだった。
 空目からも特に異論はないので、夏こそ煮込みにしようと企んでいる。セミの声をバックにアツアツのカレーうどんをすする…などというレアな魔王陛下を見物するのも一興だ。

 絶対に一生モノの話のタネになる。
 ひっそりと物陰に隠れがちなあやめに同意を求めると、ひかえめすぎる困惑が返ってきた。いつものことながら肯定したいのか否定したいのかさっぱりわからない態度だったが、妙な存在に対する耐性がきたえられているは今さら動じることもない。代わりに「あやめちゃんも食べる?」と、神隠しの少女をめくるめくカレーの世界へといざなってみた。

 そして、あやめの前に鎮座するりんごとハチミツ、ハ●スバーモントカレー。
 細長く切られたトーストとカレー皿の前に促されるまま座ったあやめは、カレーとパンとと空目の四点を、途方にくれたように幾度か見つめる。なぜか「大丈夫!」とが自信まんまんに保障した。空目の知るかぎり根拠は不明である。

「……“盲目の傍観者”か。」

 の方へ顔を向けながら厳密にはを見ていない顔で、空目は低くつぶやいた。
 彼女の何が魔女の興味を引いたのだろう、と考えていた。

 空目の中にその答えはない。しかしファジーにいえば、イエスでもありノーでもあった。あの魔女をして出向かせる『何か』を、空目は無意識下で知っているような気がした。あるいは身をもって、というべきか。彼の言葉ではその感覚を「見落としがある」と処理する。

 ――少なくとも、怪異に対する影響力……。

 本人に自覚はとぼしいようだが、彼女が近くにあることであやめに影響を及ぼしている。確実に神隠しの少女の性質が変化していく。これは尋常な能力ではない。

 目を細めて、空目は目の前のとあやめを見た。
 それはあやめが促されるまま、ついにカレートーストを飲み込んだ瞬間だった。












 ――忠実に再現してくれ。

 真夏でも常に黒づくめな魔王陛下は威風堂々とのたまった。
 そんなにぴっちり着込んでいて汗疹になったりしないのだろうかとはふと余計な心配をした。どちらにしろ真夏の黒づくめは見る者にとって、有無をいわさず視界の暴力である。室内ならばまだ我慢もできるが、これが炎天下の野外であったらと思うとは眩暈がする。

 それはともあれ、食器の洗い物を終えて布巾で手を拭いていたは、手伝ってくれていたあやめと何となく顔を見合わせた。空目の発言はそのくらい唐突だったのだ。

 何が・何で・どのように?
 とりあえず、は基本的な三つのWを挙手して尋ねた。空目が答えた。

「昨夜の魔女とのやりとりを最初から細かく再現してほしい。お前が巻き込まれる理由の一端がおそらく残されているはずだ。経験からいって魔女は巧妙に言葉を選ぶ。当初は意味不明に思えるものの、のちに事件が終わってから考えてみると確かに真相をかすっていた、そんな内容の発言をする傾向にある。ここで検討しておいて損はない。方法はまかせよう」
「へー…。うん、まあ、いいけど」
「歯切れが悪いな」
「そりゃあねー…。楽しい記憶じゃないからねー」

 は渋面で頬を掻く。笑顔を作ろうとしているようだったが、あきらかに失敗していた。
 空目は「確かに、あのときお前はひどく怯えていたようだった」と、それとなく話を促す。彼女は苦笑して椅子の上で膝を抱えた。少しだけ言いにくそうに口ごもり、それでも、数秒で居直って話し出した。

「何て言えばいいかな……。実は私、今よりも診えちゃう能力がオープンだった子どものころは、ちょっとマセてて多少ネクラな性格だったんだけどね? うーん…、なぜか、あの人といるとそれを思い出したから」
「思い出したきっかけは?」
「これといってないなー。ただ、あの人が近づけば近づくほど、怖かった。どうしてそんなに怖かったのか、そのときはわけがわからなかったけど…、今ならちょっとだけ理解できるよ。私は大部分は、あの人が怖かったんじゃなくて、あの人を通して気づかされる自分が怖かったんだ」
「自分の負の側面を自覚するからか?」
「ううん、そうじゃない。違う、と思う。そういうことじゃない」

 膝を抱えて、額を押さえて、は首を横に振るう。
 空目は黙って耳を傾けていた。

「……わからないよね? ごめん、うまく説明できないよ。私にもよくわかってないんだ。でも、何となく直感でね、あの人を見たとき『ああ、もう逃げられない』って思った」
「それは位置関係の面で? 心理的に?」
「どちらもノー。あえて言うならば心理的に。魔女に圧倒されたっていうんじゃなくてね、いや、それもあるけど。……ずっとやりたくなかったレポートの締め切りを、暗にほのめかされた感覚に近いかな。できれば、あんな人には一生会いたくなかったよ」

 他人に対してあまり批判をしたがらないが、めずらしく口にする否定。
 空目は考え込むように目を細めた。
 自分自身に確認するように、彼女はもう一度つぶやいた。隣のあやめが、ひどく心配そうに彼女を見上げている。

「――そう。会ったらいけない人に会ったと思ったの…。」

 今でもの鼓膜に残っている、感嘆した魔女の声。
“あなたみたいな人がいるんだね……”
 十叶詠子の驚きはのものでもあった。あんな人がいるなんてと思っている、今でも。
 ささやく声は今にも消えそうで、独り言に近かった。



















 めったに発生しない中心のシリアスな空気はあっという間に霧散した。
 これは状況というよりも彼女の性格が原因である。

 すぐにコロッと表情を入れ替えたはいつもどおり見慣れた態度の彼女で、先ほどまでの物憂げな一面は見つけられなかった。調子よく説明をまじえながら、記憶しているかぎりの魔女との会話を身振り手振りで再現してみせる。

 しばしば空目がの役になり、が魔女の役になった。一通りリプレイし終えてから、空目が「いくつか気になることがある」と再び対峙した位置をとる。

「魔女がお前のところに歩いて近づき、途中で止まったと言ったな」
「うん。……えーとね、このくらいの距離だったかな」

 記憶をさぐりながら、が空目から数歩ほど離れた地点に立つ。
 腕は届かないものの、比較的接近距離だった。2メートルもない。

「そして魔女は“領域”と言ったんだったな?」
「そうそう。『あなたの領域だから私はここまでしか進めない』とか『これ以上進むと私かあなたかがこわれることになる』とか、そんな感じのことを。……あとは、うーんと……」
「なるべく詳しく思い出してくれ」
「わかってる……。……ああ、そうだ。あの人はここに立ってパントマイムみたいに、こう、手を宙で動かして、『あなたは決してここから出ない』って言って……。いや、ちょっと違うか?確か『あなたは領域の中にいるから傍観者、決してそこから出ないから盲目のまま』の方が正しいかも。意味不明だけど、そんな内容だったと思う」

 やっぱりわけがわからん、とは肩をすくめる。
 空目は眉をしかめながら、めまぐるしく思考を活性化させて考え込む。
 魔女は意図的に情報を操作することはあっても、これまで嘘はついたことはない。固定的な判断をくださなければ、これが今後、解決への何らかの材料になる可能性はある。

の“領域”……。魔女の言葉によれば、お前は“領域”とやらを持ち、常にそこから動かないらしいな」
「いっこも要領をえない話だけど、まあ、そういうことだね」
「魔女の表現はさておき、これにはおそらくお前個人の能力が関係している。心当たりは?」
ない。
「だろうな」

 じゃあ訊くなよ…。心の中では裏拳とともにつっこんだ。
 ずっこけた彼女を知ってか知らずか、空目は「――あやめ」と見学に徹していた少女を呼ぶ。
 いつものように物陰にたたずみ、こっそり壁に同化しかけていた少女は、びっくりしてピンと背筋を伸ばした。うたた寝から飛び起きた子猫にも似た仕草に、思わずはほのぼのとする。あやめという少女はこういった何気ない動作がとても可愛らしい。

「あやめ、を幻視したことがあるか? 魔女の言う“領域”に気がついたことは?」
「……あ、いえ……ありません。あの……、どちらも……。」

 おどおどしたあやめの返事に、無言で空目は幻視を促した。
 神隠しの少女は困惑したようにを見上げて、再び空目を振り返った。に対する遠慮のためか躊躇している様子だったが、自身が「お願いできる?」と拝む真似をすると、ひかえめに頷く。

 魔女いわくの“領域”の外側に立ち、すうっと視線を上げる。
 視点のはっきりしない眼差しで、見えざるものを見る。物質以外の世界。幻視。

「……あ……」

 小さく、あやめが声をあげた。歩き出す。
 ドキドキしながら幻視を受けていたは「え?」と驚いた。

 えんじ色の袖から伸びた少女の手が、そっと何もない宙を撫でる。
 そこに見えない壁でも存在しているかのような手つき。
 あやめのとった行動が、の記憶にある魔女の行動と重なった。
 あのときは、まるでパントマイムだと思った。しかし――本当は、演技でないとしたら?

(まさか……。本当に“領域”なんてものが……?)

 あやめ、と空目が呼びかける。
 まだ何か目に見えないものに触れている少女は、「壁です」と告げた。

「――透明な、壁があります……。さんの周りをおおっています」

 普段の様子からはあまりにめずらしい、あやめの断言だった。
 空目は無表情に頷き、へと顔を向ける。

「心当たりは?」
「あると思うわけ?」
「だろうな」

 じゃあ訊くなってのー! 斜め45度でつっこむ真似をするを尻目に、空目は『透明な壁』に手のひらを当てたままのあやめに問いかける。

「俺にも触れる種類のものか?」
「あ、いいえ……無理だと、思います。……たぶん、ふつうの人間に……効果はありません」
「――魔女は例外か」
「いえっ、あの……。……い、いえ、……ごめんなさい」
「何だ? 言ってみろ」
「あやめちゃん、お願い。何かわかるなら」

 空目を差し置いて口に出すべきか否か逡巡するあやめに、二人はそれぞれに発言を求めた。身長を合わせてしゃがみこんだが、そっとあやめの手を握る。

 あたたかい温もりが、神隠しの少女に伝わる。
 それは生きている身体だけが持つことのできる体温だ。あやめは知っている。かつて人間だったあやめが欲しがるには不相応なもの。まして、こうして彼女のようにやさしく触れてくれる人は、めったにいない。
 あやめは頷いて、小さな唇を開いた。

「……人間でも……魔力や呪いをまとう者なら、効果があると思います」
「えっ、待ってよ、あやめちゃん――そもそも、効果って何?」
「あ、あの……。……さんを、ずっと、包んでいるみたいなんです」

 あやめは何もわかっていないふうのを不思議そうに見つめた。
 わずかに首をかしげながら、言った。

「――きっと、透明な壁は、あなたを……守っているんです……」

 思いがけない言葉に「へ?」とは目を丸くした。一方、常日頃からほとんど表情筋を動かさない空目は、このときも至って冷静なまま「それは結界のようなものか?」と尋ねる。あやめがあわてて肯定した。
 空目は数秒ほど視線を落とし、静かな声で「作為的な結界には必ず術者が存在する」と前提した。

「術者とはこの場合、結界を発生させている張本人を指す。あやめ。術者がわかるか?」
「……は、はい」
「それはだな?」
「え、ええっ!?」

 落ち着きはらった空目に本人が仰天する。よりにもよって何ということを言い出すんだと、軽く笑い飛ばそうとして――あやめの真剣な眼差しにぶつかった。
 少女の姿をした神隠しは、こくん、と頷く。

「え……っ?」

 呆然とするは、おそるおそる自分を指差した。
 その様子を見れば自覚の有無はあきらかだったが、念のため空目は訊く。

「心当たりは?」
「……こっちが訊きたい」

 だろうな、と今度は空目は言わなかった。言うまでもないことだったからである。
 急に疲労困憊した気分では額を押さえた。まるで魔王陛下のように眉間にしわが寄る。さっぱり理解できない、と重々しく訴えると、彼は返事をパスして、あやめはおどおどした。
 仕方がないのでは自分で考えた。ソファーに寄りかかって腕を組む。

「つまり……私が、まったく自覚なく、無意識にバリアーをはってる、と? いまだに信じられない気がするんだけど。でも、手持ちの情報で仮定するとさ」
「そういうことになるな。バリアー、結界、領域、壁――呼び方は様々だが、お前が無自覚に自己防衛をした結果なのだろう。何にしても、これでようやく納得がいった」
「……何が?」
「お前ほど怪異を知覚していながら、今までの人生で何事もなく無事だったというのは、ひかえめに言っても考えにくい。異障親和性が高く、怪異を知っている。それだけで機関の処理対象に入る上に、怪異そのものの危険も発生するわけだからな」
「いや、私、この上もなく無事で健康だけど……」
「だから最初から疑問だったんだ。俺のように後遺症もなく、発狂しているふうでもない。可能性としてはなくはないが」
「とっても低い、って?」
「ああ。だが、無意識にでも自己防御していたのなら説明がつく。そんな芸当が他にも可能なのかどうかは別としても、お前にかぎっては事実だな。もしくは――」

 空目はそこで言葉を切り、 を見やった。意味ありげな沈黙に、彼女は何となく身をひく。こういう目をする魔王陛下が相手だと、必ず何か予想外にすぎることを告げられてしまうような気がした。

「お前が無意識に結界をはる程度の能力を持っているとすれば、なぜ無意識なのか、という点がいっそう不自然になる。そこに何の意味がある? これは、あくまで可能性だが……」

 空目の黒い瞳が心なしか翳ったようだった。の目にはそんなふうに見えたのだ。
 あとから尋ねても、このときの彼の心境は判然としなかったのだけれど。

 ――。お前は記憶の一部をなくしているかもしれない。




















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色々いっぱいいっぱいです…(私が)(汗)