カッチコッチと時計の針の音が響くたびに時間が経過していった。 空目もも、しばらく口を開かなかった。 ――記憶の一部をなくしているかもしれない。 聞き間違えではない。確かにそう、彼は言ったのだ。 記憶とはほとんど過去に値する。それの一部が欠けている可能性がある、と。 結界をはっているのが無自覚なのは記憶の欠損に由来するのではないか、と。 「……そうだね。そういうことも、あるかもしれない」 そもそも人の記憶など曖昧なものだ。ゆえに、過去もまた定義がむずかしい。 すっからかんにすべて失うならばともかく、ごく一部をなくした『かもしれない』という程度ならば、そう騒ぐほどでもない。現に今まで、困らなかったのだし……。 が多少強がりまじりにそう言うと、空目は「――同感だ」と静かにつぶやいた。 11.欠けた記憶 が記憶喪失(一部)について一般よりも驚かなかったのは、空目に語った理由のほかに、それどころでなかったため、というのが大きい。 あったんだかなかったんだかわからない思い出の欠損がある(かもしれない)などという非常に曖昧な問題よりも、もっとずっと深刻で切実な大問題がを襲っていたのだ。 ――両親に、連絡がとれ、ないのだ…。(動揺) 学生寮を出発して、あとは帰省するだけ、という女子高生にとってこれは大変なことだった。自宅の住所はかろうじて覚えているものの、鍵がないので誰かに開けてもらわなければならない。この場合は父か母に迎えが必須になるのだが、困ったことに二人とも一気に家を開けて、そもそも日本にいないらしいのだ。 ひとまずの緊急宿泊所として空目宅にご厄介になったが、始まったばかりの夏休みは長い。一体これからどうすればいいのだろう…。 つながらない携帯電話に頭を抱えるに、空目が冷静沈着に指摘した。 「親戚筋には?」 「ムリムリ。うちの両親はその昔、結婚を親戚中から大反対されて駆け落ちしちゃった身分らしいから……。わたしもジジババの顔なんて知らないし、年賀状すら来ないよ」 娘を置き去りにしたという自覚はあるのか、があらかじめ預けられていたカードから引き出せる銀行口座には、夏休み前に確認した残高の、およそ数十倍の金額が一括で入金されていた。これはもうホテルに長期滞在か、土産物を買い込んで友人の家にでもおかせてもらえというのか。 ホテル住まいしかないか……。は結論に行き着いた。 高校二年生の夏休みを一人ぼっちで、えんえんホテルで過ごす。目的は旅行でも観光でもなく、ただ帰る家がないというだけの理由で。 ああ、むなしい。むなしすぎる…。 遅ればせながら事情を察したあやめが心配そうにを見て、おどおどと空目を見上げた。彼はにこりとも笑わず、仏像のように仏頂面なまま、とあることを申し出た。 あまりに空目があたりまえに告げるので、は最初、彼が何を言っているかわからなかった。 「ここに泊るか?」 「いや、ありがたいけどキリがないし……。もう一泊させてもらっても、多分連絡つかないような気がするし……」 「そうではない。夏休みの間、この家に住むかと言っている」 「そう、夏休みのあいだ……。……ええっ!?」 いいの!? 勢い込んでが念を押すと、無感動な瞳が頷いた。 もっとも彼はいついかなるときも、たいてい無感動である。 「かまわん。ただし、食費と調理は自分で面倒を見てくれ」 「洗濯と掃除もやらせていただきます! もちろん君のぶんも!」 ありがとうー! 半ば強引にがっしり握手をして、目をぱちくりさせている神隠しの少女にも「よろしくね」と笑う。はにかんだようにあやめが微笑みを返した。 喜ぶあまり、そのときのはまったく気がつかなかった。 年頃の少年と少女が、一つ屋根の下。 例の屁理屈の産物『実験』の可能性とともに、彼女がそれに思い至って固まったのは、鼻歌なんぞ歌いながら布団をほしていた昼前のころだった。 テーブルの上には三人分のアイスティーとクラッカー。 は一枚一枚カードをめくりながら、空目とこれからの方針について話をつけていた。 「じゃあ、私の特技のことは機関の人には話さないほうがいいんだね?」 「身の安全を考えるならば当然だ。奴らは、疑わしきは滅すると断言して臆面もない」 「うわー、信長タイプか……。鳴かねば殺すわけね」 「あの魔女のことも黙っていたほうが得策だろう……。進んで助けたい相手ではないが、くわしく知れば奴らがどんな手段に出るかは自明だ」 「オッケー。そのときになったら、そこらへんの駆け引きは君にまかせるよ」 ぺしん、ぺしん、とは10枚のプラスチック製のカードを裏返していく。何の迷いもない気軽な仕草を眺めながら、「問題は」と空目が低く切り出した。 「村神たちにどこまで説明するか……。これから起こるであろう事件においてが関わる以上、足並みはそろえておきたいというのが正直なところだ。だが、俺はお前の意思を無視して打ち明けるつもりはない」 「……ああ、そっか……。文芸部のみんなも巻き込まれてきたんだもんね。今回もその可能性が高い、か。確かに、仲間内で隠しごとがあるのは良くない」 「――俺は以前に誓ったとおりにする。お前次第だ」 転校初日の屋上で、彼はおのれの自我と思考にかけて誓った。それが、の秘密を教える代価だったのだ。事実、今まで空目が忠実に口をつぐんできたことをは知っている。 万人に見えないものが見える。 聞こえるはずのない音を聞く。 一歩間違えれば、その秘密はの人格と人生を殺すことができる。弱みと同義だ。 集団から外れる異質をしばしば人は拒絶し、異質は排除されようとする。例外になってしまう辛さを知っているは、そのために他人の中にとけこむ術を身につけた。 だからこそ、彼に尋ねられたときには躊躇ったのだ――しかし。 昨日あの熱にうかされたような感覚の中で、空目の希薄さを思い知った。 ちゃんとみはっていなければ、どこか後戻りのできないところへ行ってしまうと思った。 気恥ずかしさには目をつむって考えれば、は空目を『こっち』につなぎとめておきたいのだ。生きていることを謳歌しない彼を――勝手な言い方をすれば、守りたい。 そのためには、この手ひとつでは無理かもしれないと考え始めていたところだった。 味方がほしい。 同じように彼を生きている人間としてつなぎとめたいとする味方が――稜子や武巳たちがそうなってくれたら、と思う。 「……うん。いいよ、話そう」 わずかばかり苦笑しつつ、は最後のカードを指先でめくった。『☆』のマークが中央に描かれている。その隣には『○』や『△』などの図形がつづく。 「どうせ放っておいても私が巻き込まれて、いつかみんなにバレることなら、早いか遅いかだけの差だしね…と、思うことにする。ただし、まだよくわかってない『領域』うんぬんは、ムダに混乱させるだけだから止めとこう」 「……本当にいいんだな?」 「私もそのくらいの覚悟は固めてあったんだよ。手伝うって言ったでしょ? その代わり、っていうの変だけど……新しく誓ってくれるかな」 「内容にもよるな」 「多分、簡単なことだよ」 は少し微笑んだ。 視線だけはどこまでも真面目に、揺らぎのない空目の瞳を見据える。 「ひとりで……危なくなったり消えてしまうようになったときには、絶対に私に教えておいて。 できるだけ早いほうがいいけど、直前でもいいから、何も言わずにどこかに行かないでよ? 私は、君を怪異なんかに殺させないって誓ったんだから」 あのときは半分以上憤怒しながら、彼に人差し指をつきつけたのだ。 こともあろうに遺言めいたものを託そうとしたので、きっぱりと跳ね除けた。色々と思うところも多いが、あの選択に後悔はしていない。 空目は変わらぬ無表情で「……わかった」と、ゆっくり頷いた。 「誓おう。いざとなれば必ずに伝える」 「いざとなる前、が親切だけど……。守ってよ?」 「ああ」 意外にもあっさりと空目は誓いを立てた。まさか破る予定で誓ったんじゃあるまいな、とがこっそり一部で疑うくらいには抵抗がなかった。 何しろ空目は根本的に理屈屋で薄情な人間である。 は自分からも目を光らせていようと心に決めた。困ったことに、そうでもしておかなければ、彼はさっさと踏み越えてはならない一線を飛び越えてしまいそうな危うい雰囲気があるのだ。 助けられたかもしれない友人に何もできなかったときほど目覚めの悪いものは少ない。 「さて、と……」 気を取り直したが、テーブルの上でめくり終わったカードと、空目に手渡しておいた白い紙を開いて、平行に並べる。白紙にはカードをめくる前の当てずっぽうの予想が適当に並んでおり――困ったことに「All hits…!」テーブルの上のカードの並びとまったく違いなかった。 「ていうか……。そんな気はしたけど、まさか全部……」 「10枚で10回のシャッフル中、88枚のヒット。1回平均およそ9枚。90%弱の正答率だ」 「し…、知らなかったー…」 新たに加わった特技にはがっくりとうなだれる。 彼女が生まれて初めて気がついた、カード当ての能力だった。 空目がESPカードを持ち出してきたときには「まっさかー」などと鼻で笑っていたのに、こんなに簡単にめくってもいないカードの模様がわかるだなんて思いもしなかった。 空目いわく、凡人はせいぜい10枚中2枚程度の当たりで終わるものらしい。 (うっ……私ってナニモノ……?) 多少おかしなものを知覚するだけの特技だと思っていたのに、見通しが甘かった。 本当に、自分にこんなことができるなんて知らなかったのだ。 ここまで予想外の自己発見がつづけば、いかに図太いといえども少しショックだった。これまで私の知っていた私は一体何だったのだろう、という哲学的ともとれる苦悩。もっとシンプルにいえば、不安だった。 しかし、その状態が長く横ばいにならないのががたる所以ともいえた。 「…………ちょうどいいから、みんなへの私の特技の説明に使おうか。わかりやすいし」 転んでもただでは起きない神経のが開き直ってそう言った。 そしては、ついつい忘れがちになっていた。 これから起こる何らかの事件と、謎の機関と、文芸部のみんなへ事情を打ち明けることぱかりを考えて、魔女の言い残した言葉をおざなりにした。 なくした記憶、意識からけずられてしまった過去。 そこにどんな意味がありえるのか――はその片鱗をかいまみることになる。 彼らの言葉に耳を傾けてはいけない。 魔術師のあやつる言葉には“力”が宿る。 一時は記憶に埋もれさせ、時間差をつけて、再び真新しく伝える“力ある言葉”…… は白昼夢のような形で、かつて彼らが告げた言葉の数々を思い出していた。 闇の中で暗鬱に笑う声がする。 ふわりと夜色の外套がたなびいていた。白い貌に浮かんだ笑みが見える。 『――殻を身にまとう、希代なる者よ』 彼を知っている。 あれから何度か気まぐれにあらわれた……神野陰之。 『君の領域は絶対的なものだ。特に存在が不安定なものにとっては、返って圧倒的すぎて灯台になる可能性も秘めたもの』 ああ、そうだ。彼は最初から、そう告げていた。 魔女に教えられる前からに教えていた。気づかなかっただけだ。 あのときの自分には理解できる言葉ではなかったから。 『二つの世界が君の中に同居しながら、あくまでも君は傍観者たる位置に存在しようとする』 魔女と同じようなことを言う……。 そう思ったとたん、少女の声が響いた。 『これがあなたの領域……。だからあなたは傍観者。 決してここから踏み出さない。だからあなたは盲目のまま』 『謎でも何でもないよ。わたしは見えるものを言葉にしているだけだもの』 傍観者。盲目。 見えるもの……? ならば彼らには何が見えているというのだろう。不可思議なことばかりを口にする。 理解できないと訴えても、ただ、それぞれに笑うのみ。 友好的かもしれないが、少しも親切でない。 (……盲目の傍観者だなんて勝手なことを言って) 眼鏡を持っている以上、いばれる視力でもないが、冗談でも盲目といわれるほどの近視はひどくない。普段はコンタクトを入れて、生活に何の不自由もないのに。 確かに裸眼では、ごく近くに寄らなければ話している相手の顔すらぼんやりとするけれど、眼鏡かコンタクトを入れれば、きちんと見える―― その思考にかぶさるように、新しい声が響いた。 『ひとの顔が、よくわからないの』 舌ったらずな声は、魔女よりもずっと幼い少女のものだった。 年頃のわりには冷めたふうな調子で、抑揚に欠けていた。つぶやくように喋る。 誰だろうと疑問に思った。の記憶にない声だった。 『よく注意すればわかるんだけど、わかりにくいの。どうしてみんなは、すぐにわかるの…?』 『わたしのみているところが変だっていうの』 『あんなにめずらしいのに、ずっとみていたら変だって』 小さな少女の、小さな声。 聞いているだけのの胸が痛くなるほど、不安そうなつぶやきだった。 まだ世界をよく知らない、幼い子どもが、泣きそうになりながら自問している。 『わたしは、おかしいの……?』 うつむいている小さな子どもの頭が見えた。 つばの広い帽子を両手に握りしめて、身構えるように肩を緊張させている。 『わたしが、変だったの……? 先生にしかられるのは、わたしがおかしいからだったの?』 『あれはみえたらいけないものだったの』 『わたしは……だめな子なの……』 子どもの声が、どんどん弱々しくなっていく。 声もなく女の子は泣いていた。 ぽた、ぽた、と真っ白い帽子に涙が落ちて、色がにじむ。 どうしてなの…。必死に泣き声を押し殺す子どもが、絶え間なく自問する。 世界を責める術を知らずに、自分を責める。 ――どうして… は子どもの代わりに世界に問いかけた。 なぜ、見てはならないものを見せるのだ。本当に見てはならないならば、最初から見せなければいい。見せなければいいのに。 見えなければ……知ってしまわなければ、こんなにこの子が傷つくこともなかったのに! これは、自分のための叫びでもあった。見てはいけないものは最初から見えなければどんなにいいだろうと、ずっと思ってきたから。 (世界が一つだって、私も信じていたかった) けれども本当は、見るべきものも見てはいけないものも、同じようにこの目に映る。その区別を知るためには、心に傷をつくりながら探らなければならない。 見えないほうが、きっと良かった。 ついにしゃがみこんだ少女の姿が、ふっと消えていった。 (……でも。見えなければ、空目くんを守れない) 誰もいない空間で、今度はが立ちつくしていた。 彼はがあやめを見なければ、隣の席になった転校生を屋上には呼び出さなかっただろう。稜子や武巳だって、きっと噂がなければ、話しかけてきたりしなかった。 今のようには、ならなかった。 『……これで、よかったの?』 泣いていたはずの子どもの声が、ひっそりと尋ねた。 小さな人影はもうどこにもない。 (良かったのかな……。そうだね、これでも良かったほうなのかもしれない……) 子どもは何も答えなかった。 もしかしたら先ほどの声もに尋ねたわけではなく、独り言だったのかもしれない。 (これで良かったんだよ) もう一度だけ自分で確認するためにつぶやいた。 真っ白な風が吹いた。 世界は塗り替えられ、そして―― 「――…気がついたか」 真っ黒な物体がの目の前をおおっていた。空目だった。 驚愕するあまり「……っっ!?!!?」言葉にならない悲鳴をあげたが、言葉にならなかったので大して意味はない。 はいつの間にか本格的に寝入ってしまったようだった。背中や頭の裏に、寄りかかっているソファのクッションが感じられる。 しかし今の彼女にとってそんなことはどうでもよかった。 「ちょっと待て…! な、何を……!?」 「動かないでくれ。さっき、お前から異界の匂いがした」 「は、はああ?」 「ともかく動くな」 空目はしごく真面目な様子でそう言い、の肩をがっしり押さえつける。言葉のとおり、動くなという制止らしいが、そんなものをされなくとも彼女は微動だにできなかった。 一体のどこから『異界の匂い』とやらが感じられたのか知らないが、それは感知した空目にとっても不詳のようで――彼は彼女におおいかぶさるようにして、至近距離まで顔を寄せているのである。 それは現実には少しの間だったが、には何十分にも感じられた。 嗅覚に集中するために閉じていた目蓋を上げて、空目は眉根をわずかに寄せる。 「……おかしいな」 「おかしいのは今の君だっ…!」 「確かにお前から、一瞬、異界の空気がしたんだが。――いや、夢を見ていたとすれば、考えられないこともない。、直前の夢の内容を覚えているか?」 「君のせいで忘れたともさ…!」 即座に言い返すと、彼は「不可抗力だ」と一言のたまわった。臆面もない。 こうなってしまうと抗議するだけ無駄である。 仕方がないのではささやかな報復として、昼食を鍋焼きカレーうどんに決定した。食卓に置く寸前まで沸騰させた、アツアツのだし汁で舌をヤケドしてしまうがいい…! …という魂胆だったのだが、空目は慎重に一箸一箸じっくり安全になるまで冷ますタイプだったので、まったくの無事だった。 まあ、淡々とうどんを冷ます魔王陛下と、一生懸命フーフーするあやめが可愛かったので、はそれなりに溜飲を下げた。 本気ですっぱり記憶から弾き飛ばされた夢の内容を、当分思い出すことはなかった。 |