――少しも不安がないといったら嘘なのだ、実は。 いつも顔を合わせている友人が、突然「霊感持ってまーす」とあらわれたら普通はひくだろう。絶対ひく。間違いなくひく。 自分が逆の立場だったら、まず熱をはからせる。(お約束) そのくらいには、うさんくさい。 「でも、それなりに不思議体験してるみたいだし……」 意外に平気かも? と希望的観測。 いざとなれば魔王とあだ名される空目が何とかしてくれるに違いない。と、これは確信。 何にせよ、もう後には退けないのだ。 12.噂の協力者 その日、一番早くに空目宅へと到着したのは村神俊也だった。 チャイムを押してから門扉を通ると、相変わらずえんじ色の衣服をまとった少女が出迎えに来た。案内など要らないほどには空目宅の構造を知っている俊也だったが、特に何も言わずに小さな背中のあとに続く。 玄関から廊下を抜け、始めの扉をくぐると、広々としたリビングルームがある。 俊也はもちろんそれを見知っていたが、室内に通されたとたん強い違和感を覚えた。いわくいいようのない違和感だった。 どこがどう、とは動揺のあまり説明できない。 とはいえ、確実に記憶と雰囲気が異なっていた。 「ああ、来たか」 「空目……」 キッチンの奥からあらわれた空目が、さらに俊也の違和感を増大させた。 細工の優美なトレイの上に紅茶を乗せて持ってきたからである。ティーカップの隣にはキッチンペーパーの敷かれた丸い籠に入った、たくさんのスコーン。 この時点で明らかにおかしい。 しかし、さらに奇妙だったのがカップの数が4人分だったこと。 「……他に誰か先に着いてるのか?」 そうだ、それしかない、と俊也は違和感から目をそむけたが、否と空目は首を振る。 一年中黒づくめの少年は日焼けしていない指を伸ばして、トレイから紅茶とスコーンをテーブルに並べる。俊也のそばにいたあやめが、あわててそれを手伝った。 カップの並びは、まず空目の前に一つ、俊也の前に一つ、あやめの前に一つ置かれた。 俊也は眉をしかめた。 神隠しの少女は、まったく飲食をしないという話を聞いた覚えがあったのだ。その彼女は、小さな両手でそっと最後のカップを包んで、こぼさないよう丁寧に、テーブルの一辺――空白の、誰も座っていない席に置いた。 「……どういうことだ?」 「じきに追加がくる」 空目はスコーンの籠を指して、短く答えた。 いつものことながら、この上もなく不親切な返答である。 やはり木戸野や近藤のどちらかが先に到着しているのかとも思ったが、空目はきっぱりと否定したので考えにくい。 俊也がふとあやめを見ると、彼女は困ったように視線をさ迷わせた。 こいつは何か知っている。 そう直感した俊也が何事か尋ねようとしたとき―― 「あっ、いらっしゃーい。ずいぶん早かったねー、村神くん」 空目があらわれたのと同じにキッチンから最後の紅茶の人物がにこやかに顔を出した。 追加のスコーンとクッキーの詰まった籠を手に持って、やあと笑う。 それは文芸部員が一人、ウワサの転校生ことだった。 村神俊也が予定より一時間も早く訪ねてきたのにはまさしく予想外だったが、空目は堂々と「理由はあとで話す」で乗り切った。他に一切の説明をはぶいたまま。 つのる疑問も多々あっただろうに、なまじ付き合いの長い俊也はこういうときの空目が押しても引いても意見を変えないことを知っていたらしく、さほど反論もせず彼は沈黙した。 あらかじめ空目と話し合った結果では――本来ならば、黒服たちに会わないためと混乱を避けるために、は機関の人間が帰ってから登場する手はずだったのだ。しかし急遽、俊也のようにイレギュラーな到来もある可能性を考慮して、早々には二階へ上がることになった。 手製のスコーンにクッキー、電気ポットに茶器を持って、この夏まで空目宅に用意されている自室で引きこもる。暇つぶし用の本を何冊か借りているので、おそらく数時間程度はじっといていられるはずである。 多少の物音は立派な壁が吸収してくれることだし、彼女はこの部屋でひたすら読書をしていればいい。 簡単といえば簡単だが―― (……き、気になる) はベタッと床に張り付いて、右耳をくっつけた。 黒服も到着したらしい階下では、先ほどから時折、誰かの激する声が聞こえてくる。それが誰なのかまでは小さな音すぎて判別できないが、どことなく低音であることから察するに俊也だろうか。…間違っても空目ではないだろう。 くるみ入りのスコーンをかじりながら、そうしてしばらく耳をひそめていたが、やがて飽きて予定通り読書をすることにした。 こんなところでヤキモキしていても仕方がない。 ふさわしいタイミングが来れば、おそらくあやめが呼びにくるはずだ。 魔王陛下に借りた蔵書の一冊を手にとって、表紙を開き、最初のページをパラリとめくる。 古い本だった。紙の端が茶色い汚れににじんでいることから、おそらく古本屋で購入したものなのだろう。新品で空目の持ち物になったのならば、その時点から整理整頓されて管理されるため、こんなふうに傷みようがない。 人間文化の、おかたい学術書のようだった。 内容は日本と西洋の文化発展の全般的な差異から始まり、特に生活環境から生じるイメージの独自性へと展開していく。日本家屋の通気性、もっと極端にいえば雨漏りや隙間風などの住居環境はどのように無意識下に影響するか――… テーマはさておき、改行と起伏に乏しい文章の羅列がレイアウトに工夫もなくえんえんと続いていて、は徐々にしかめ面になっていった。 はっきりいえば、つまらない。 (持ち主はこんなのにエンターテイメント性なんて期待してなさそうだもんなあ…) そもそも彼はそういう感性であまり読書をしていない。 転入からこっち空目は空目なりにを観察してきたと言われたが、もなりに空目を観察してきた。希代の変人と目される彼を変人たらしめている言動、つまりそれを突き動かす原動力は何だろうとずっと考えてきた。 手持ちの言葉では『知識欲』に近いような気がする。 だから彼の自室に立ち並ぶ蔵書を見たときに彼女は(…ああ、やっぱり)と思ったのだ。 幼少期に遭遇したと聞く神隠し。空目の異常はおそらくそこに起因する。 それから彼は知らずにはいられないというように、超現象から民俗学、社会心理学の本まで読み漁るようになったらしい。 何かにせきたてられるように。 何かを取り戻すように、欠けた何かを確かめるように。 (……そっか。もしかしたら、私も?) ようやくそこに思い当たった。 あの“壁”というの無意識の自衛から彼が記憶喪失の可能性を指摘したのは、自身の経験から到達した思考なのかもしれない。彼が神隠しに遭っていた間のことをろくに覚えていないように、も自分がどうして“壁”で防御するようになったかを覚えていない。 (それに、私はいつから“壁”を作るようになったんだろう……) 無意識なのでその点も記憶にないが、まさか生まれつきに自己防御していたとでも思わないかぎり少し苦しい。もし単なる生存本能でそうしていたなら、空目の指摘はまったくの的外れになる。確かに本人も「あくまで可能性だ」と前提していた。 (でも、もし……本当に、わたしが何かを忘れていて、それでバリアーが無意識の産物になったんだとしたら、なんで――) ……忘れてしまったのは、『なぜ』? は自分の考えにギクリとした。 気づきたくない類の可能性だった。自分で自分の頭を殴ったような心地がする。 両手を見下ろした。 わたしには自覚していないことが多すぎる…。そう思った。 (……忘れているのは、そこで何かあったから?) 記憶から消えるほどの、消さなければならないほどの『何か』が…あった。 そして“壁”を作らなければならなかったのだとしたら、逆にいえば、それまではに“壁”の存在がなかったということだ。 それは“壁”の他に何かですでに危険から守られていたからか、それまで安全だったのに急に必要性が高くなったのか。 他に守られていたのだとしたら何に? 急激に危険になったのだとしたらなぜ? そのエピソードは一体、いつ、どこで? 「…………本っ気で記憶にねえ……」 思わずは遠い目をする。 まあここで考えても妙な先入観を増やすだけなのかもしれない。 カップに新しく紅茶を注いで、くるみスコーンを片手に一服した。 空目に借りたつまらない本をわきに追いやって、しばらくティータイムを満喫していた彼女は、そのうち最高に困った状況に陥った。 まずい…とつぶやく。 ――トイレに行きたい…! 水分をとれば出したくなる。ついでにいうなら紅茶には利尿作用があり、ぶっちゃけてトイレが近くなるのだ。そこまで知っていながら、ああ、盲点だった。 いくら空目家の壁や床が立派だといっても、二階のトイレを使用して一階の住人に無音で済ませられるわけがない。真剣な話し合いの場にはBGMやテレビの雑音なども期待できないだろうから、まさしく絶体絶命だ。 (あやめちゃん……! お願い、はやく、早く迎えに……!) もはや前代未聞の神隠し頼み。 の必死の祈りが天につうじたのか、ややもせずコンコンとひかえめなノックが救いの神のように彼女の耳に響いた。 木戸野亜紀は空目の口から「今回は協力者がいる」と聞いたとき、耳を疑った。 例によって表情をほとんど動かさない空目が淡々とそう告げ、あやめに視線で何事か頼む。リビングには亜紀の他に俊也と武巳、そして大迫歩由実がそろっていた。歩由実以外は皆、唐突な空目のセリフに驚きをあらわにした。 「協力者……?」 「ああ」 「どういうことだ? 空目。まさか、さっきあいつがいたのは」 心当たりがあったらしい俊也が信じられないというように尋ねると、空目は首肯する。話が見えない亜紀と武巳はもの言いたげに彼らを見た。歩由実は無関心そうに一人だけうつむいていた。 「まさか黒服の……」 「違う、あくまで個人的な協力者だ。お前たちも知っている」 妙に断定的な口調で「すぐにわかる」と空目は静かにカップを傾けた。 色あざやかなストレートティー。 待て、という無言の態度に亜紀もそれにならって紅茶を口にした。ついでにテーブルの中央に籠につまれていたクッキーを初めてつまんで、その風味にドキリとする。 手作りの味だった。おそらく今日、焼いたばかりの。 亜紀はめったになく明らかに驚いたように目をみはった。 あやめが空目の指示で奥に消えたことを改めて考えて、ハッと気がつく。 「恭の字……もしかして、その協力者はもうここにいるってこと?」 「ああ、ずっと二階にこもって物音を立てないようにしてもらっていた。――黒服たちに見つかると確実に面倒なことになる奴なのでな。今、あやめが呼びに行っている」 「面倒って、おい、空目……。それはが処分対象に入ってるって意味か」 「十中八九、見つかると消されることになるだろう。今のところ感染していないのが救いだ」 俊也が口走った名前に亜紀はさあっと血の気が下りるのを感じた。一瞬のうちに表情に出さないように自制が働いたが、内心では動揺していた。 ――…。。亜紀にとってはなるべく近づきたくない名前だった。 それが、協力者? トントントンと階段を下りる足音がリビングルームまで響いてきた。 しかし、その足音はどうやらリビングの方へは向かわずに、違うドアに閉じこもったらしい。代わりとばかりにあやめがキィ…と扉の隙間から顔を出した。「は」と尋ねる空目におろおろと首を振った。 小さく小さく聞こえた声は、次のような内容だった。 「…………あの……二階に、か、紙がないって……」 思わず、は? という顔をする亜紀たちの中、空目が納得したように「ああ、そういえば」と軽く頷く。なぜそれで納得できるんだと誰もが思った。 「最近二階は使っていなかったからな……」 「あ、あのさ陛下……。……なんの話?」 「気にするな。大した問題じゃない」 いや。でもものすごく気になるよ陛下。 武巳が好奇心に負けてなおも口を開こうとしたとき、リビンクに新しい顔がひょっこりあらわれた。噂の協力者。 何やら真面目な顔で「空目くん…」と真っ直ぐに黒づくめを見据える。 「一階もラスト一個だったよ。急がないと大変だ」 「ああ…、今気がついたところだ。つい失念していたな」 いや、だから何の話? あきらめきれない武巳が今度はの方に尋ねると一言で答えが返った。 ――トイレの話。 |