居間は圧倒的な静寂に包まれていた。 とてもとても居心地の悪い雰囲気だった。 ――どうもー。協力者のでーす。 そうお笑い芸人風に冗談めかして名乗ってみたはいいものの、あとにはこのような恐ろしい沈黙が横たわってしまったのだ。専門用語ですべったともいう。 間がもたなくて思わずコホンと咳払い。 「ちゃん……?」 台所からお茶のおかわりを持ってリビングルームに戻ってきた稜子に、えへへとは笑って見せた。再び「しーん」と痛すぎる静寂。 これで稜子を含め、居間には文芸部5人と大迫歩由実にあやめ、計7人がいることになる。皆めいめいリアクションに困ったような顔をしていた。困らせている張本人のすら困っているのだ。常日頃から何かと困った様子のあやめなどオロオロしつくしていた。 どういうこと? と最初に亜紀が言った。 答えたのは空目だった。 「……発端からかいつまんで説明しよう」 13.果実の誘い 空目が彼らに説明した内容は、おおむねこうである。 ――は昔から妙な『もの』を感じとることができた。 その妙な『もの』には一般的に幽霊と呼ばれるものの他に、本物の怪異も含まれていると考えられる。あまりに幼いころからの身近にあった異能なので、彼女なりに独自の対処法を持っている。 今のところ感染も見受けられず心身ともに健康な状態だが、数日前、が一人でいるときに魔女が接触をはかってきた。 その時点では魔女は一方的な会話をするに留まり短時間で立ち去ったらしいが、経験則からかんがみるに、今後が何らかの事件に巻き込まれる可能性が高い。 …そう思っていた矢先にこの『依頼』だ。確証はないが、念のため注意する必要がある。 できるかぎり行動をともにし、目の届く範囲にを置く。 そのついでに彼女の能力で協力してもらうことがあるかもしれん―― 「これでが怪異の当事者になるような事態にでもなれば…少なくとも俺は、無関係ではいられなくなるだろう」 空目は説明の最後をそんな言葉で締めくくった。 うがった見地からすれは脅しである。 (い、いたたまれない……) 彼にしてみれば単に付け加えただけなのだろうが、可哀想に、稜子などビクッと小さく身体を震わせた。武巳も心なしか青ざめ、俊也はひそかに拳を握り締めていた。 亜紀だけが平然と「…訊きたいんだけど」とと空目を見た。 「この件に付き添わせることによって逆に危険が増すってことはない?」 「ありうるだろうな。だが、知らないうちに知らない場所で感染されるよりは幾分マシだ…… ……予防が効く」 なるほど、となぜか一緒にも頷く。 感染だの物語だのという言葉にいまいちピンとこないのだ。 (やっぱりよくわからんよ…。『異界の物語に感染すると怪異があらわれる』なんて……) なんだそりゃ、と内心でつぶやく。 一応はうわべで理解できても納得しがたい。不可解だ。 ……そんなふうだったのだろうか、『彼ら』は。 いないようでいる、いるようでいない、あの奇妙な隙間の住人たちは―― (うーん…、物語。物語かー…。ああ、物語につられて自殺なんてイヤすぎるよね…。何でお話なんてもので死ななきゃならんのさ。そんな豆腐の角に頭ぶつけるみたいな死に方…) とりとめもなく考えながらカードをシャッフルする。ESPカード。 これならば目に見えて能力がわかりやすいだろうと披露してみるのだ。それなりに興味があるのか、俊也や亜紀たちもの手元に注目していた。 適当にぺしんぺしんと伏せていたカードを内容を宣言しつつ引っくり返していると、ふと歩由実の様子が目に入った。 に注目している面々からはあきらかに隔絶した態度で、ぼんやりと視線を空にさまよわせている。 奇怪な体験でずいぶん疲れているのだと聞いたそのままの空虚な表情。 弛緩ぎみの四肢に脱力した肩が、いかにも頼りない。 その背後に―― (…………っ!?) は息をのんだ。 カードをめくろうとしていた指が止まる。 目を細めてから、いったん閉じ、もう一度開く。 視えた『もの』は消えずにそこにあった。 静止した彼女に気がついた武巳たちが視線をたどり、延長線上の歩由実を見る。 しかしが凝視するのは大迫歩由実ではなかった。 「あやめちゃん……」 空目が口を開くより先にが、どんよりとあやめを呼んだ。 神隠しの少女は唐突に自分が呼ばれたことに驚きつつも「…は、はい」と返事をする。 彼女だけはが何も言わなくとも同じところに視点を置いていた。 「自信がないから確認してもいいかな……。あのさ、あれって――首つりの……?」 「…………は、はい。そう、見えます」 「あー、やっぱり?」 うわー。はっきり視えちゃったよー。ちょっと半泣きになりながらが頭を抱える。 空目がすかさず「どんなふうに視える?」と尋ねる。 とあやめは互いに顔を見合わせた。 「どんなって言われても……。首に縄かけた人がそこにいてさ。……たぶん男の人だよね、あやめちゃん」 「………え、ええ。まだ若い方です。ただ……顔が…濃い影になっていてわかりません」 「ああ、本当、すっごいイヤな感じだよー…」 目尻の涙をぬぐいながらは言う。半そでから出ている二の腕を見れば、思いっきり鳥肌が立っていた。 心配した稜子がハンカチを差し出してくれるのを受け取る。猛烈に気色が悪いだけで泣くほどの恐怖ではない。ところが不思議なことに、涙はあとからあとからあふれ出た。 (……うわ、まずい、本格的に来た) 実はこういうことは時折ある。ちょっとした生理現象の一種のようにもので、強烈な『彼ら』にあてられたとき、その影響で勝手にだらだらと意味もなく涙が流れ出るのである。 あわてては「気にしないで」誤魔化すように手を振って説明した。 「久々にこんなゴッツイの視たから油断してたよ……」 「――それほどか?」 「くわしく聞きたいって顔だね? 空目くん」 冴え冴えとした無表情を見返して、はくすりと笑う。 さっそく協力者としてのお役目らしい。まだの異能に半信半疑な文芸部の面々の視線は気になるが、返って、ならば率直に見たままを語ってやろうではないかと腹をくくった。 なるべく稜子ちゃんたちに嫌われませんようにと内心で祈りつつ。 すうっと問題のポイントに顔を向ける。 そこには問題の光景が広がっていた。 「首に縄つけた若い男の人がいることは話したよね?」 「ああ」 「うん、それだけなら別に大したことないんだけども……ゴッツイって言ったのはその表情でさ。いや、これ夢に見たら絶対にうなされるって顔だよ。みんな見れなくて正解だよ……」 「具体的には」 「……こっちにガンつけまくってる」 あれは確実にケンカ売ってるね! と断言する。 ひかえめながら神隠しの少女も何度もコクコク頷いた。 よっぽどスゴイらしいと他の面々も想像がつく。武巳などは正直に「視れなくて良かった…」と素直に胸をなでおろしてしまった。 は神妙な顔で「心中お察しいたします」と歩由実に向き直った。 ひどく顔色の悪そうな彼女を傷ましそうに見やる。 「こんなのに寝ても覚めても四六時中ガンつけられてケンカ売られ続けたら、そりゃあ大迫先輩も壮絶に大変ですよね……」 「……え? あ、はい……」 「今、先輩の位置からちょうど5時方向にいますから、11時のところにいる村神くんを見ているといいですよ」 ずびし、と指されて、俊也が「…オレ?」と戸惑ったように眉をしかめた。 背後の気配での言葉が真実だとわかったのか、歩由実が「ありがとう」と頷く。 年上の女子にえんえん見つめられることになった俊也は、しばらく何か言いたそうにしていたがそれは完璧に黙殺された。 歩由実から2時方向の空目が「他に気づいたことは?」と淡々と続けた。 1時方向のは、うーんと涙を流しつつ首をひねりながら問題の光景を眺めていたが、やがて目をこらすように顔をしかめた。よくよく凝視すると、首吊りの背後に新しく見えてきたものがあったのだ。 (あれは……。……何だろう、おかしな……) いわくいいがたい奇怪なシルエット。 なかなか鮮明に見えなくて、いっそう目をこらしてみる。 「その後ろに木がある……かな? もんのすごい大きな木。へんな形……。あやめちゃんにはどう視える?」 「………! …え……っ?」 「枝も葉もたくさんあって、実が――何か大きな実がなってる……」 集中するの視界の片隅でえんじ色の少女が驚愕したようにこちらを向くのが見えた。 それすらも切り捨て、なおも集中して視線を尖らせると、なぜだか視界にではなく、耳が…鼓膜が、震えた。 「……待って。音が――」 視点を歩由実の背後へと向けたまま、耳の裏に手を当てる。 そうして意識を絞るあまり、表情の一切が抜け落ちていることには気がつかなかった。 見えないどこかを見ている目つきで、聞こえないはずの音を探っている転校生を、亜紀たちが強張った顔で見守る。 空目の袖をあやめが躊躇いがちに、しかし幾度も引っ張った。 神隠しの少女は彼を見上げて「違う」とでも言いたげに、ふるふると首を振る。違うんです、と実際に訴えもした。 「さんが視ているものは、私が視ているものとは……」 「何?」 「……い、いえ……きっと私が視たものよりも、もっと――!」 少女にしては前代未聞な大声に、亜紀たちや歩由実までもが振り向く。 たた一人、だけが、異界の音に集中して微動だにしない。聞こえていないのだ。 「へ、陛下? 彼女、どうしたの……?」 「……かつて『異界のもの』そのものだったあやめは、ゆえに“あちら側”を視る能力を有する。ところが、そのあやめよりも深く強く、今、が異界を『視て』いるらしい。本当にそんなことができるとすれば――」 「………!」 「尋常ではない。それは人間というよりも、本質的には“あちら側”に近い部分がある。例えば」 ……あの十叶詠子のように。 その場に緊張が走った。 魔女と自称し他称もされる彼女の一端を誰もが知っていた。 対峙するだけで気圧される異常な感覚を思い出すことができる。 「そして、その異能について言えば…この俺もまた、似たようなものだ」 空目は静かに付け加えた。 話題の渦中にいるは“こちら側”の衝撃などに気づきもせず、一心に“あちら側”の情報を追い求めている。 無表情な彼女はいつもの様子を知っている者からすれば別人のようだった。普段とりたてて誰も気に留めなかった目鼻立ちが、意外と怜悧に整っていることに気づかされる。 はゆるゆると瞳を閉ざした。 眠っているよりも硬い印象を与える唇が、小さく動く。 音がする、と聞こえた。 「……どんな音だ?」 空目の問いに、縄の音、と短く返る。 小さな声を聞き取るために、空目がの近くへと膝を進めた。 ――そして気がつく。 「! これは……」 瞠目した空目は、ばっと歩由実を振り返り、数秒後、またへと戻す。 もともとよろしくない目つきが、さらに鋭くとがっていた。 事態についていけない一同に「匂いがする」と簡素に告げた。異界の匂いがする、と。 もっとも強い匂いを発するのはだった。 匂いのもとをたどって空目は彼女に接近する。むせかえるように甘い香りが鼻をつく。 はそんな彼との至近距離にも気づかず、耳に手を当てたまま目を閉じていた。 もう少しではっきりと聞き取れるというところまで来ているのに、なかなか音がつかまらない。寄せては返す波にも似て、どうにも捕らえどころがなかった。 でも縄の音、という気がしたのだ。 細く皮膚に食い込みやすい荒縄のきしみが聞こえたような気がした。 (……なんで、それが首吊りの縄だってわかるんだろう、私) 意識のどこかでぼんやりと思う。目蓋がひどく重い。 なぜ――それが首に巻きつく縄だとわかったのだろう。 (どこかで……聞いたことが、ある……?) わかったのではない。知っていたのだ。 以前にも同じものを聞いたことがあるから。 そう思い至ったとたん、あれほど求めてもすり抜けて行くばかりだった『音』が鼓膜を打った。 過去に確実に2回、耳にしたことがある、縄の音。 ―――ぎぃ… ……ぎぃ、ぎぃ…… そう、転校してきたばかりの日と終業式の日に、確かに聞いていた。 感覚へ侵食してきた不快で強力な気配。 おいで、と手招きしている。今も―― ……ぎぃ…… あのときとは違い今回はのほうから近づいたから、今までとは距離が比べものにならないほどに近い。 まなうらによみがえる奇怪な巨木と、大きな実、 縄の耳障りなきしみ、 呼ぶ声が―― ……ぎぃ、ぎぃ…… ―――おいで、 ―――おいで…… 「……や……」 大きな大きな捻じ曲がった木にたくさんぶら下がる果実が、いっせいにこちらを見た。 その中で一番大きく、一番熟した、一番匂いの強い実が――おいで――低く呼び続ける。 その実の正体を、 その実の顔を、見た。 “ お前もここに来て我が礎となるがいい ” “ 我が実となって ” “ 我が力に――― ” 異常に左右非対称な顔つきの老人が、だらりと首を吊ったまま、を手招いた。 おいでと呼ぶその声に従ったら、自分もそうして首をくくることになるのだと嫌でも理解した。 次いで、どうやら深入りしすぎたのだと悟った。 魔王陛下の云うところの『異界』を追いかけすぎた。帰り道を忘れてこんな変なところに行き着き、現実世界で首を吊るなどと冗談ではない。 目蓋を開けなければならないと強く思ったが、まるで縫い付けられたかのように両目は開かなかった。 代わりに声ならぬ声で叫ぶ。 “ 馬鹿言わないで、私は……! ” 首吊りの木に下がった『彼ら』がにたりと笑った。 同時に思い出す。 拒絶の言葉は有効であると、かつて『彼』を退けたそれを口にした。 「……私は……っ、そちら側へは、行かない……っ」 私は、お前の、ものにはならない! 声が喉を通って音になったとたん、ざあっと意識の霧が晴れた。 目蓋に乗っていた重りが消えて、思わず強く息を吸い込む。まなうらで見ていた奇怪な光景とはまったく違う、空目宅のリビングルームが視界に映り、ホッとして全身から力が抜けた。 (あ、あぶなかった……) 稜子や武巳がひどく驚いて、あわあわと近寄ってくるのに、呆けたように笑う。 すぐ後ろにあるソファに寄りかかって「こ、こここ怖かったよー」と訴えた。 比較的冷静な亜紀の説明によると、 「目を閉じたあと急に動かなくなって、固まったまま呼んでもろくに返事のない状態が続いてね。そのうち恭の字があんたから異界の匂いがするって言い出して、傍目にもかなりヤバそうだなってころに、自力であんたが戻ってきたんだよ。もう少し遅ければ村神が殴ってたところ」 「あのね、村神くんなら加減ができるだろうからって……」 「……マ、マジですか……」 根性入れて戻ってきて良かった、と心からは思った。 無事だったおのれの両頬を触ろうとして、何やら部分的に身体が不自由なことに気がつく。だんだん落ち着いてきて、ようやくは自分の置かれている状況が――姿勢ともいう――を悟った。 そういえば視界のどこにも見当たらなかった陰気な黒づくめがどこに行ったのだろうと思っていたら、ものすごく至近距離にいた。どのくらい至近距離かというと、視界に映らないくらい至近距離だった。 じんわりとぬくもりが伝わるほどである。 抱きしめられていると形容しても過言ではなく、むしろそのまんまであった。 「いや、陛下が……ちゃんから異界の匂いがするって……」 なぜか武巳が途方にくれたように言い訳している。 心なしか木戸野女史の視線が固い。俊也は遠慮がちに視線をそらし、歩由実や稜子はものめずらしげにまじまじと見つめてくれていた。 は反応に迷った末、 今も首筋あたりに鼻を押し当てている真っ黒い頭にびしりとつっこみを入れた。 ようやく、むっくりと黒づくめが身体を離す。 「……おかしいな」 「……おかしいのは今の君だと前にも言わなかったかな」 いちじるしい倦怠感を覚えながら、ソファに寄りかかって、大きくため息をついた。 とっさに赤面をこらえることができた自分がすばらしいとさえ思った。相当に疲れた気分で再びため息をつき、は自分が本当にずいぶんと疲労していることに気がついた。 その証拠にすさまじく眠い。 噛み殺しきれなかった欠伸がもれる。 うとうとと目蓋が下がり、ごめん急に眠い…と自己申告するや否や、くたりとソファの椅子に頭を下ろした。 |