――私はお前のものにはならない! 少女が必死に叫んだ声は、強い望みをともない、空間をわたって彼のもとまで響いた。 たゆたっていた深淵の闇が人の形をとり、震える。 「わかっているとも。いまだ君の望みは変わらない」 名付けられし暗黒はつぶやいて、哂った。 夜色の外套がざわりとたなびいて彼の輪郭を危うくさせる。 「わかっているよ……」 いとおしげに目を細めた。 君は領域を守る者。だから今はそうして眠るがいい。 14.拒絶反応 が眠り込んでしまった日の翌朝。 空目宅を訪れた俊也は、やはりあやめに案内されて二階の客室へと足を運んだ。 おおよそ7畳ほどの広さの洋室のベッドの前に、空目がたたずんでいた。 細身の後姿は考え込むようにして、眠り続ける少女を見下ろしている。 ドアノブを回した格好のまま、俊也は言葉をさがした。 「……まだ起きねぇのか、」 「ああ――昨日から、どれほど呼んでも反応がない。外からは完全に熟睡しているようにしか見えないが、これほどに意識が戻らないのは昏睡に似ている」 昨日のうちにも稜子がさんざん呼んだり揺すったりしたが、唐突に眠り込んだが目覚めることはなかった。異能を使いすぎた結果だろうと結論づけたが、それでもここまでかたくなに眠り続けるものなのか、俊也には判然としない。 「書き置きはした。……行こう」 「……いいのか?」 「ここでじっと待っていても仕方がない」 今日はこれからすぐに歩由実の自宅に集まることになっている。彼女の状態を観察するためと、自殺してしまった彼女の兄の遺品を調べ、手がかりをさぐる目的だ。 自然と空目宅には眠る一人になる。危うい位置にあるらしい彼女を置いて出かけても平気なのかと問うたが、幼なじみの答えはにべもなかった。 すべての施錠を確認し、大迫宅へと向かう道すがら、ふと空目が言った。 やや後ろを小走りに神隠しの少女がついてくる。 「――昨夜、あやめに眠っているの幻視をさせた」 「……!」 「何も見えなかったらしい。例の首吊りも、巨木も、果実とやらも――自身も。様子をさぐるどころか一面に白い光ばかりが見えて容易に近づけなかったようだ。その点から考えて一人にしてもある程度までは安全だろうと帰結したんだ。あやめも初めて見る光景らしい」 「それは……どういうことなんだ」 「さあな。だが、おそらく感染による症状ではないだろう……」 かつての神隠しすらも立ち入れぬほどの幻視を行ったが何を『視た』のか、なぜその内容を伝える暇もなく意識不明に陥ってしまったのか―― 彼らはその答えの一端を、次の日、思いがけない人物から与えられることになる。 集まった大迫宅の二階にて、室内をあやめが幻視し、歪曲した巨木を視た。 異界の残滓だというその木は、昨日、が歩由実の背後に確認した光景と同一だろうと空目は言った。 数多くの古めかしい魔道書にきな臭いものを感じながら、それからは主にそれぞれ別行動をとり、めいめいの役割分担を果たすことになった。 特に亜紀と稜子の女子組は、歩由実の家に泊まりこみながら様子を観察する。 昼間には図書館へ調べ物をしに行く必要もあったが、一日目は稜子と武巳がその帰り際に魔女と遭遇したため、二人は暗黙のうちに室内の仕事へと回されることになった。 歩由実の感染深度は次第に増していく様子で、芳賀も警戒を強めつつある。たいがいの場合そうであるように、よりいっそうの真相の解明が迫られた。 少しでも手がかりになるための情報をそれぞれが捜し、また考えた。 おそらく何らかの鍵を『視た』が目覚めないままに、そして二日目の午後。 空目、村神、あやめの三人はこの場所にいた。 ――魔女の座。 広々とした中庭、青空をうつす水面。 蓮の葉が青々と浮かぶ池のほとりに、にこやかに彼女はたたずんでいた。 いつものように彼女は笑い、独特の呼び名を使い「こんにちは」と挨拶をする。 からかっているふうにも、はぐらかしているふうにも取れる言葉を操り、いかにも自然体の態度で、緊張と警戒を張り巡らせている三人に対峙した。 この無垢に笑う魔女が黒幕ではないかと疑った空目だったが、それは本人によって否定された。しかし「私は今回は無関係」と言いながらも、何かを知っている口ぶりだった。 あやめを指し“人の形を希む風”と呼び、「今ならば君達を守ってあげられる」妙なことを言う。それは空目がきっぱりと断ったが、俊也にもあやめにも魔女は言い知れぬ恐怖を覚えさせた。 さらに今、立ち去ろうとする三人を魔女は呼び止める。 なおも怪しく思わせぶりに―― 「ふふ、最後にもう一度言おうか? 私はね、君と違って思考することよりも『視える』ことのほうが多いんだよ。理由も理屈も正体も過去も、知っているんじゃなくて見えるものなの」 魔女は微笑みながら空目に言う。 つい、と魔女が彼に近寄った。 空目は一筋の動揺も見せなかったが、代わりにあやめがビクリと震える。 「それはね――“盲目の傍観者”さんも同じだと思うよ……」 盲目の傍観者。それは空目宅で眠り続けているを指していた。 俊也もあやめも驚いて目を見開いた。 空目だけが即座に眼差しをきつくする。 「まさかとは思うが、を眠らせたのはお前の仕業か?」 「やだな、違うよ。本当に信用がないんだね、私は」 そう言いながらも彼女に傷ついたそぶりはない。 くすくすと笑って言う。「彼女はただ壁の中に閉じこもっているの…」それは少なくとも俊也には理解不能な言葉だった。『壁に閉じこもる』とは何の表現だろう。 しかし、空目とあやめにだけは共通の心当たりがあるようで、二人は同時にハッとした表情をみせた。手ごたえを感じた魔女はふふ、と笑みをもらす。 「あの強くて固い壁は彼女を守るけれど、同時に彼女を閉じ込めてもいる。あそこにいるかぎり彼女は“盲目の傍観者”のままで、彼女の『世界』が動き出すことはない。――だって、それを彼女が望んでいないんだもの」 「……それは壁がを眠らせているということか?」 「そう。さすがだね、『視え』てもいないのに君はすぐ鍵穴を見つけられる。私は、鍵も鍵穴も持たない代わりに、そのままが透けて見える……本当なら、彼女もそうなんだよ。今は駄目。 頑固で忠実な壁が彼女を守ってしまうから」 意味不明に思える魔女の発言に、数秒、空目は考え込んだ。 俊也は見守るしかない。彼にとって理解できることは、空目とあやめが何か自分たちに言っていない事実があったのだろうということだけだった。 伏せていた目を上げて、空目は問うた。「はいつ目覚める?」相変わらず無邪気に笑う魔女は「ふふ、そうだねえ――」何がそれほどにおかしいのか、目を細めて心から楽しそうに告げた。 「あの壁は『約束』に基づいているの。ずっと前に交わされた『約束』と『予言』が今でも彼女を縛ってる……。壁が彼女の意識を閉じ込めるように反応したのは、危険から彼女を守るため。だから目覚めさせるには、もう安全だって教えてあげればいいんだよ」 「…………」 黙り込んだ空目に、彼女はいっそう楽しそうに笑った。彼の背後にいるあやめにもにっこりとしてから、空目に一言だけ付け加えた。 「――何も『見立て』は『彼』だけの専売特許じゃないからね……?」 くすくす、くすくすくす……。 空目は無言のまま、さっと身をひるがえした。帰るぞ、と短く促された俊也は何が何だかさっぱりわからない。一刻も早くこの場から立ち去りたかったのが本音だが、空目はさらに魔女のことなど眼中にないようだった。 遠ざかる三人の背中に、「“盲目の傍観者”さんによろしくね」と十叶詠子の声がかかった。眠ってしまったが近いうちに必ず目覚めると確信している様子に釈然としないまま、俊也は空目のあとを追った。 集合場所とする予定になっていた大迫歩由実宅に到着するころには、もう西日が差しかけていた。居間に三人が戻ると、暇そうにしていた武巳が真っ先に出迎えてくれた。二階にいたらしい歩由実と稜子も階下の様子を察して下りてくる。亜紀だけがまだ図書館から戻っていないようだったが、彼女もさほど間をあけずに戻ってきた。 図書館の噂として大迫栄一郎著がソースと思われる『三つの約束事』があったのに対し、直接寄贈されたはずの彼の著作は皆無。主に新しく判明した事実はそれだけだった。 大した進展のないまま二日目は終わった。 寮へと戻る武巳と別れたあとの帰り道、俊也はの事柄に触れようとしない空目についに尋ねた。オレたちに何を隠しているのか、はなぜ眠っているのか、魔女の言っていた壁とは何か、を目覚めさせる方法をもう知ったのではないか……。 それらを一気に訊くと、空目は否定の動作で首を振った。 「何を隠しているかも、なぜが眠ったのかも、壁の意味も今は言えん。そういう約束だ」 の了解が得られないかぎり、むやみに口外しないと誓ったのだという。 彼女が目覚めてそれに頷かないうちには俊也たちには話すことができない。 そこまでは俊也はそれほど驚かなかった。 ところが、次の空目との会話にはとっさに「なぜ」と口走るほどに意外だった。 「……を目覚めさせることはできる。やろうと思えばすぐにでも」 「? だが、今朝はどれだけ呼んでも起きなかったって言わなかったか?」 「ああ、むやみに呼ぶだけでは無理だ。魔女が言ったように自身が『安全』を認識しなければならない。ゆえに目覚めさせる方法は簡単だが――今のところ、そうする気はない」 俊也にとっては大半が意味不明に終始した、魔女との会話の中で何を知ったのか、空目は確信のある口調で断言した。 手詰まりなこの状況を打破するために、が『視た』とおぼしき情報を得るのは数少ない望みのはずだった。神隠しの少女よりも深く幻視したならば、それだけで核心へと迫ることができる可能性が高いからだ。 しかし彼はそれをしないという。 「確かにの行った幻視の成果があれば何か前進するだろう。しかし村神、それは同時にの危険をも意味する」 「……何だって?」 「あのときはあやめよりも深くまで怪異に触れた。それからずっと彼女が眠っているのは彼女自身の自己防衛反応によるものだ。怪異は情報を媒体にして人間に感染する。ゆえに人間の身で怪異に近づくということは感染の危険を伴う。あれはかなり危険な状態だったんだ」 そう言われて、俊也は思い出す。 殴らねばなるまいかと皆に思わせるほど無反応になるまで幻視したと、何とか自力で我に返ったもののはっきり蒼白になっていた彼女を。 俊也の知る物怖じしない朗らかな転校生とはあきらかに印象が違った。 「今のからは何の情報も得られないが、感染の危険もない。……手詰まりな状況だからこそ、さらに先輩以外の感染者が増えることは避けたい。確実に手が回らん」 「……そうだな」 「もっとも、リスクを負ってでもを起こすべきだと考えられるほど事態が切羽詰まれば、目覚めさせるをえんのだろうがな……」 そこまで事態が悪化してしまってから起こされた彼女は一体どんな反応をするのか、と俊也は考えた。安全な状態を壊されて恨むのか、なぜもっと早くに起こさなかったと怒るのか、それともただ悲惨な状況に泣くのか。何となく怒りそうだと思いながらも、そんな極限の状態ではどれもありうるだろうと思った。 いざとなれば誰でも保身が働く。それは本能だ。そうを考えると、どうしてむざむざ危険に遭わせるのだと恨まれてもおかしくはない。 俊也が何とはなしにそれをつぶやくと、空目はいったんは「さあな」と興味のなさそうな返事をしたが――考え直したかのように、「…怒るかもしれん」と言った。 思いがけない言葉だった。 らしくない反応をした幼なじみの表情は薄暗い住宅街の中ではとらえにくいが、ひどく落ち着いた声の調子をしていた。 付き合いの長い俊也をして微笑っているのかと錯覚させるほどに。 驚きはしたものの、それよりも穏やかに同意した。 「……だな。怒るかもな。…ああいうヤツだし」 「ああ」 そっけない相槌でも、やはり彼にしてはめずらしい。少し遅れてついてくるあやめまで驚いたように見ているのだから、めったにない反応なのだ。 今のところは眠らせておく。その日は三人の間でそういう方針に決まった。 ――それが早くもくつがえされることになろうとは、このときの二人には知る由もなかった。 |