感染深度のピークに達した歩由実が救急車で運ばれたという一報を受け取ったのは、早朝のことだった。それは自傷行為に至るほどに自我が侵食された事実を指していた。
 急遽、予定を変更して集まった空目宅にて芳賀と文芸部の面々は顔を合わせた。

 現在、歩由実は父親の手により大迫宅に閉じこめられていること、しかし機関は今のところ動くつもりのないこと、こうしている間にも歩由実の危険は深まっていくこと――判明したそれらの事実はあきらかな事態の悪化を物語っている。

 歩由実の感染した『物語』がどんなものか不明であることが後手に回っている最大の要因だ、と空目は言った。つまり怪異の本体がわからない。効果的な手出しができないのだ。
 感染元は『奈良梨取考』――その本自体もまだ見つかってはいない。

 八方塞がりの心境で空目宅に集まった面々は解散して行った。
 最後に一人だけ残った俊也が「…空目」と声をひそめて呼んだ。

「……のことは、どうする?」

 黒づくめの幼なじみは表情を変えないまま、無言で「まだだ」と首を振った。
 危うく難しい判断だと承知している俊也は、一言、わかったと答えた。前回の木戸野亜紀のように、近しい友人が異界のものに壊れされていく姿など見たくはない。まだ時間的に付き合いの浅いでも、もう俊也の中では立派に『身近な人間』の一人に入っていた。

 ――その夜、大迫歩由実は首を吊った。















15.目覚めれば君が


















 歩由実は首をくくる直前に、第一発見者となる稜子に電話をしていた。
 今となっては遺言になったその中に、空目が真相へと迫る欠片が含まれていた。

 ―― 一連の事件は奈良梨取りに見立てた大迫栄一郎復活の儀式。
 犯人は死んだ大迫栄一郎本人とその協力者であり、現実に動いているその『協力者』を止めないかぎり、どこかで次の犠牲者が出る可能性が高い。

 歩由実が自殺したその日のうちに考察を求める芳賀に対し、淡々と空目がそういった内容を伝える。黒服のエージェントは例のわざとらしい笑顔で感謝を述べ、ようやく彼らに帰宅を許した。

 空目は帰り道ずっと深遠に何かを考え込んでいたようだった。あやめはもちろんのこと、隣の俊也も声をかけることができない。
 道程はほとんど無言だったが、俊也の訊きたいことは一つだった。もう三日ほども眠り続けている転校生をどうするのか。
 しかし、彼が尋ねる前に空目が告げた。

「村神、これからを起こそうと思う」
「……!」
「先輩の自殺によってひとまずの感染者はなくなり、法則性は判明し、感染媒体は行方不明。さしあたってに降りかかる危険は減った。そろそろ頃合だ」

 それに三日以上延長するつもりは最初からなかったのだと言う。
 眠った状態であったとしても彼女は生きている。れっきとした生命活動があり、未成年の少女の体力的にも長い絶食は別の危険をまねくからだ。

 転校生が異常な眠りに入っていることを亜紀、武巳、稜子は知らない。  慣れない能力の使い方をしたために体力を落とし、自宅にて療養中ということになっている。

『もちろん完全に安全だとは言えないが、あの幻視の様子では俺たちと行動をともにして大迫先輩の近くにいることのほうが良くないだろう』

 緊迫した状況の中で、もっともらしい空目の嘘に気がつく者は文芸部にはいなかった。
 本当のことを知っている俊也も、あのとき魔女から『壁』なるものの名前を聞いていなければ、おそらく空目のその説明を信じていたはずだ。

 来るか、と尋ねた黒い眼差しに、何も言わずに頷いた。













 はこんこんと眠り続けていた。眼球運動からは何の異常も見受けられないものの、すでにその連続睡眠時間の長さが問題だった。
 幾分青白く見える顔でぴくりとも動かないので、ふと死んでいるのではないかと思えてくる。注意して観察してみれば胸元が上下しているとわかるのだが。

 どうするんだ、と少しばかり逸る心で俊也は尋ねた。
 いったん自室へと行っていた空目は「村神、これを」と一枚の紙を彼に渡した。
 そこには福沢諭吉がいた。

「…………」

 さすがに幼なじみの真意がこれっぽっちも読み取れず、俊也は困惑のかぎりをつくした。
 これをどうしろと? が目覚めないのはお金の問題なのか?

「少し多いが、細かい持ち合わせがない。俺がを起こしている間に頼む」
「…………何を?」
「三日ぶりに起きれば普通は腹が減っているだろう」

 幼なじみの心の底からの素朴な疑問に、当然のような顔をして魔王陛下は答えた。
 そう言われてみると「なるほど」と納得できる。この一万円札でもってのための食料を買って来いということらしい。

 人間は何も食べなくても一週間ほどはかろうじて生きていられるものらしいが、水も食塩も口にしないとなると、それよりも格段にもたない――そんな知識を思い出して、まずい、と絶句する。あたりまえだが転校生は水も食塩も摂取していない。
 病院で点滴の一つも受けられれば良かったのだろうが、場合が場合だけにそれも避けたいところだったのだ。第一、今そんなことを考えても仕方がない。

 目配せを受けたあやめも小走りに俊也のあとをついて行った。
 玄関の扉を閉める音がかすかに響いて、空目はに向き直った。
 二人の出て行った部屋で彼女を見下ろす。
 人払いをされたのかもしれないと俊也が気がつき、それでも眉をしかめながらスーパーを目指すのはちょうどこのころである。

 空目は「」と呼んでみた。やはり返事はない。
 しんと静まり返る空気を壊さぬよう近づけば、の寝息だけが小さく聞こえた。少女の呼吸はゆっくりとしていて、ひどく深い。それは冬眠する動物にも似ていて、『壁』の本能だろうかと思った。

 彼女の『壁』は彼女を守るためにはたらく。
 そういった無意識下の作用には融通が利きにくいのが性質だが、この『壁』は少なくとも彼女を餓死させようという気は薄いらしい。人間、単に寝たきりではあまりにも身体機能が低下するものだ。

『あの壁は『約束』に基づいているの』
『ずっと前に交わされた『約束』と『予言』が今でも彼女を縛ってる』

 魔女の言葉が脳裏によみがえる。
 たやすく信用できる相手ではない上に理解不能な言動をするが、それでも魔女は嘘は言わない。彼女は言霊を使う者だけに、偽りを口にするよりは謎かけを好む。

『目覚めさせるには、もう安全だって教えてあげればいいんだよ』
『何も見立ては彼だけの専売特許じゃないからね……?』

 遠まわしな物言い。暗喩と示唆に散りばめられたセリフ。
 慎重に仮定を予想してみれば、得られるものがある。俊也には「確実に目覚めさせる」というようなことを言ったが、実際には空目の考える方法は可能性の域を出ていない。

 それなのに、こうして試してみようとするのはその方法にリスクが少ないからだった。
 大雑把に言えば無いと言い切っても過分ではない。

 約束。予言。唐突に訪れた眠り。
 それを目覚めさせるための『見立て』にはざっと考えていくつかある。その中からもっとも可能性の高いものを選んだ。
 そう、あの魔女の反応……おそらく『これ』だろうと思った。

 ベッドの端、横たわる彼女の右脇腹の横に膝を乗せた。
 ギシリとスプリングが音を立てる。 
 表情をくずさず、淡々とした動作での片腕を取り、背中とシーツの間に手を入れた。

 眠っているだけの人間にしては、感じられる体温が低かった。
 力なく垂れようとする後ろ首を支えて、もう片方の手で顎を固定させる。

 ふっと顔を下ろして、唇と唇をあわせた。

 数秒重ね、反応が返らないことを確認すると、もう一度くり返す。
 単なる皮膚接触にすぎない行為も『見立て』の中では充分な意味を持つ。数多くの物語にある、いわゆる『目覚めさせるための行い』というモチーフには口付けがもっとも多く登場する。国、作者に関わらず、たいがいが危機が去った後半部分に挿入されるエピソードであり、さらに眠る登場人物の過去には『約束』あるいは『契約』、そして『予言』が前提されている。
 あくまで可能性、失敗しても特に問題はない。

「―――……」

 ぴく、と空目からは見えない位置で、わずかに指先が動いた。
 彼は唇が触れ合うだけのものから、顎を支えている指を引いて、より深い口付けを試していた。いっさい性急さはなく、ゆっくり少しずつ顔を傾ける。

 そのとき、神隠しの少女がいたならば、徐々に薄くなっていく『壁』に気づいただろう。
 頑固にを包んでいた結界がもとの透明に戻っていく。幻視を拒む視界を焼くような白光もなりをひそめ、音もなく収束へと向かう。

 しかし、光が消えうせる途中、結界に触れている空目に独特の反応が起こった。いくらかの白光は彼を素通りせずに周りに残り、一瞬ののち、パッと解けいるように消える。

 それらの特異な『壁』と自身との反応を知る由もない空目だったが、いささかの異変を身のうちに感じてハッと身を引いた。
 いぶかしがるようにから離れた左手を見下ろし、それを自らの心臓部に当てる。

「……?」

 それは不可解な衝動だった。
 彼の認識する自己にはついぞ予測しがたい――理由の見当たらない行動。

 ひどくやさしい口付けを羽のように落とした。
 かつて彼女が気まぐれに行ったものによく似ていた。

 どうして『そう』なったのかは、空目自身、ずいぶんあとになるまでわからなかった。
 静かに重なった唇を角度を変えて再び合わせようとしたとき。

 ぱっちりとの目が開いた。

「…………」
「…………」

 数秒ほどの間、完全なる沈黙が流れた。
 目覚めたばかりの少女はおのれの身になにが起こっているのか理解できていない様子で、近すぎて視点の定まらない彼を呆然と見ていた。

 一方、空目は無事にが目を覚ましたことを淡々と黙視し、ならば用はないとばかりに身体を離した。いつもどおり、その表情にくずれは見られない。

「……え、……え゛? あの、い、今」

 ベッドで寝たまま、ろくに言葉にならないで混乱を示す彼女に、空目は「お前は三日寝ていた」しごく冷静に告げる。「三日!?」それはそれで驚愕したらしいが「…じょ、冗談希望」とリクエストするところを「事実だ」とそっけなく跳ね除ける。

 寝すぎ特有の倦怠感を訴える身体を起こしたは、ぎこちない手のひらでグーとパーを繰り返し、どうやら彼の言うことは嘘でないのだと悟った。
 全身がだるく、踵と頭と腰が痛んだ。

 そうして落ち着いてくると、目覚めた瞬間の記憶がよみがえった。
 おそるおそる尋ねる。アレは一体何だったのかと。
 寝ても覚めても黒づくめな魔王陛下はしれっと言った。

「実験だ」














「……腰が痛い。床ずれができたかもしれない
「これから数日、血行を良くして健康的に過ごせば回復するだろう」

 がたまらずに苦境を訴えると、あっさりと空目がすべてを流した。
 彼はそういうところが本当に魔王陛下だと思う。

(……くそう、ヒトゴトだと思って……! ……ヒトゴトだけど)

 通称、床ずれ。血行不良により身体の各突出部位の皮膚表面に起こる腫脹から壊死までを指す。寝たきりのお年寄りなどに多く見られる。ひどいと穴があいて骨が見えてしまうという単純明快な原因ながら、大変に恐ろしい症状だ。
 …こんな若い健康体のみそらで経験するとは思わなかったである。

 空目の運んできたミネラルウォーターを飲んで一息つきながら約三日間に起こった出来事を説明してもらっていると、ビニールの買い物袋を両手に下げた村神俊也があらわれた。さらにその背後から、ひょっこりと小さなえんじ色の少女が顔を出す。

「――…よお。起きたんだな」
「……、さん……っ」

 身長の対照的な二人がホッとしたように顔をほころばせた。
 二人とも人払いをしたあとの空目が何をしたのか、特に俊也は気にならないと言ったら嘘になるが、軽く眉を上げただけの空目の反応からして聞きだすことは難しいと判断した。

 それよりもひとまず目覚めたばかりの転校生の世話だ、と俊也は思い直した。
 ガソゴソとビニールの袋をさぐり、ポンと飲み物をベッドの住人に放る。寝起きで多少機敏さに欠けはしたが、がとっさにそれをキャッチした。
 紙パックの野菜ジュースだった。

「まずはそれ飲んで、胃を慣らしとけ。ゆっくり飲めよ。今、何か消化にいいもん作ってきてやる。…好き嫌いはねえな? よし――空目、台所借りるぞ」
「ああ」

 にょっきりネギの突き出た袋を手に階下へと姿を消す俊也。
 あやめがあわてて手伝いにあとを追う。
 何だか頼もしい背中には不覚にも少しばかり感動した。良い意味のイメージギャップだった。すばらしい。
 ネギの他にちらっと見えたニラがメニューを予感させる。透けて見えたのはりんごだった。

「……村神くん……お料理うまいの?」
「手馴れてはいるだろうな。叔父と二人暮しだ」

 戦うコックさん。そんな言葉がついの脳裏に浮かんだ。
 ちょっと嬉しくなりながら野菜ジュースを少しずつ飲み、彼女は空目の経過報告を聞き――そのうちにどんどん顔をしかめていった。

 ジュースが不味くなったのではない。
 空目の話の展開が不味くなっていったのだ。

 感染の危険を考えて眠った自分を即座に目覚めさせないまでは、まあいい。しかしその後に歩由実が救急車で運ばれた時点でも手を打たなかったのには思わずストローを噛んだ。そして大迫歩由実は首を吊って死んでしまったという。

「……そんな……」

 そんな、と失意の言葉が口から勝手にこぼれた。
 彼の話が本当ならば、は眠ってばかりで大切なときに関わることができなかったということになる。
 三日ものんびりと寝こけて、ようやく目が覚めたら、三日前は目の前にちゃんと生きていた人が死んでいた。自殺だったという。
 歩由実が首を吊ったと聞いて、は真っ先に、あの日見た首吊りの男を思い出した。

(――あの、男……)

 しつこく『おいで』と呼んだ大きな木に生る大きな実。
 あの不吉な誘いに歩由実は結局、死ぬことでしかあらがうことができなかった……?

「馬鹿! なんで…、なんで私を起こさなかったの……!」
「過ぎたことを言っても始まらん」
「それを君が言うんじゃないっ。そりゃ私が起きてたってあんまり役に立たなかったかもしれないけど、大迫栄一郎がずっと先輩を呼んでたってくらいは知ってたのに」

 空目を責めても仕方がないとわかっていても言わずにいられなかった。
 勢いにまかせては枕を投げつけた。空目が手をかざして防ごうとしたが、意外と豪速な羽毛の固まりに防ぎきれず、ぼふっと防御ごと枕が顔面に直撃する。大して痛くはないものの、空目は軽く眉をしかめた。

「――、それよりも答えてくれ。あの時点でどこまで視えていた?」

 枕に引き続いて丸めたシーツを投げようとしていたが、振りかぶった格好でピタリと止まる。空目が無表情であるのは相変わらずとしても、眼差しが妙に真剣だった。

「……どこまでって。だから、大きな木に大きな実がなってて、その実がみんな人の顔で」
「その中に大迫栄一郎は?」
「いたよ。ていうか私をあのとき変なとこに引っ張り込もうとした張本人だもん。あの木になっている中で一番熟した実だった」

 大迫栄一郎――『彼』は強くを呼び、哂っていた。
 迷惑千万なことに「お前も我が礎になれ」などとほざき、はそれが大迫栄一郎著書の近影に載っているものと同じ顔だと気がついたのだ。

「――前にも何度か学校で見たことがあったんだ、あの縄の音。…ううん、主に聞いたことがあるって言ったほうが正しいかな。そう考えると、私はあれで誘われたのは三回目だね……あそこまで引きずられかかったのは初めてだけど」
「……学校でだと?」
「そう。どことは厳密にわからないけど、学校であることは間違いない」

 兄弟姉妹は、と鋭く尋ねる空目に「一人っ子」と肩をすくめた。
 三日間の出来事の大体を聞き終えたは「…思うに、あれは相当だよ」とつぶやく。

 シーツを投げることはもう止めたらしく、膝の中に抱え込んでそこに顎を埋めた。
 少し冷静になったというのもあるが、単に疲れたのだ。寝たきりで基礎体力が大幅に落ちているようだった。
 ぽつりと独白のように言った。

「そもそも大迫…いや、小崎摩津方、だっけ? あーれは、ろくなもんじゃないよ……」
「……つまり?」
「つまり首をくくらせるなら末子も長子も一人っ子も関係なしってこと。たぶん、究極的にはその奈良梨取考とやらを読まなくても殺される」

 目を細めて不機嫌そうに言った彼女に「お前のように『視る』ことができれば、か?」と空目が確認する。うん、とは頷いた。

「聞くことよりも見ることのほうが情報量が多いし、ダイレクトに理解できるから。ほら、何かの授業で習ったでしょ、人間が頼る五感の割合」
「大部分が視覚で次に聴覚――」
「うん、だからね……思うんだよ。本っていうのは二番目くらいに影響力が強くないかな。物語そのものだけじゃなくて視覚も使うから、それだけ言ってみれば、霊感のない人でも読めば確実に感染する」

 一番感染させやすいのは動画だろうけど、と眉をしかめては言う。
 映画やビデオ。視覚と聴覚を使うそれがもっとも危ない感染媒体だ。

「ああ……。今回それが本の形をとったのは、保存を考えてのことだろうな」
「――さかのぼれば二十年前から始まってたんでしょ? 気長に綿密だよ。長期計画だよ。肉親も道具の一つだよ。そんな人間が作ったものなら……。――あのさ、正直…協力者も想像がつかない?」

 声をひそめては空目を見据えた。
 さきほどから持って回った言い方をしていたのはこれを言いたかったのかと空目は内心で合点がいった。彼女もまた、協力者の可能性の高い人物に思い至ってしまったのだ。

 ―― ミ ナ カ タ 

 声に出さず、唇の動きで示された名前に空目は首を振った。
 眉すら動かさない反応から、も彼がすでに同じことを考えたのだと気がついた。

「それは俺も考えた。だが確証はない」
「私も確証はないよ。…直感しただけ」

 いやな直感、と口の端だけでが苦く笑う。両腕で膝を抱えて眉根を寄せた。
 つい数日前まで『物語』も『感染』も実感がわかなかったというのに、こうして思考を追及している。そう思うと、眠っていただけの三日間が惜しく感じられた。

(……『壁』が私を眠らせてた)

 いまだに『物語』よりも『感染』よりも実感のわかない『壁』。
 自身が無意識に生じさせている自己防衛。それでも、どうしてそれが今回こんなふうに作動したのか、心当たりくらいはある。

(わかってる……一番危なかったからだ。今まで『視た』ものの中で一番あれが危なかった)

 空目の言葉を借りれば『本物』だからなのだろう。
 ただの悪霊じゃない。そんな可愛いものではない。
 別の世界に引きずり込むほどに生きている人間を操る凄まじい影響力。
 そしてを守る『壁』は驚き、それに過剰反応をしたのだ。

「……そっか、無意識の『壁』の限界なんだ」

 ぽつりとつぶやくと、空目が無言で黒い眼差しを向けた。
 は苦笑して「こうやって私が眠っちゃったことについて」と付け加えた。これだけでも彼ならばわかるだろう。
 予想通り、「ああ」と首肯が返ってきた。

「そうだな……お前を無意識に守る『壁』は、そのはたらきが無意識であるということが最大の長所と同時に欠点でもある。臨機に即した反応ができない。ある一定以上の危険が迫った場合、単純な防御では間に合わず、今回のような破目に陥る」
「あのさ……、それってやっぱり、あれ以上の危険から防御するには無意識のうちじゃ足りないってことだよね?」
「ああ、この仮説の上ではな」

 じゃあさ、とはふと真剣な顔をした。

「私が『壁』を意識できれば、あれ以上の危険も防御できるかもってことになるね」

 空目はあっさりと「可能性はあるな」と頷いた。
 同じく、うん、と頷いたあと、はがくっと脱力した。
 理屈の上では『壁』を意識下におけばいいというだけのことだが、そんな今まで存在に気づきもしなかったものを急にコントロールできるわけがないのだ。

(修行とかすれば何とかなるかな……。……滝に打たれたり。うさぎ跳びとか)

 思いつく修行のパターンが古典的なものしかない。昔の漫画じゃあるまいに。
 ――異能はあるのに異能こそがそれを封じる。
 自分の絶妙な役立たずぶりにがどんよりしていると、何を思ったか空目はその心のうちを読んだかのように短く告げた。

「……気にするな」

 それは魔王陛下らしくもない慰めの言葉。

 メシ持ってきたぞー、とちょうどホカホカした土鍋とともにあらわれた俊也とあやめも、不意打ちでその爆弾発言を耳にしてしまい、思わずおのれの聴覚を疑った。

(――明日は雪!?
(いや、世界が終わる日かもしれない!)

 たった一言だけでこの真夏の盛りにそこまで思わせる魔王陛下は、すこぶるクールに続きを言い放った。

「気にするだけ無駄だ。お前にそこまで期待していない」
「……君、だんだん私に対して遠慮がなくなってきてるよね」

 やっぱり魔王陛下はどこまでも魔王陛下であった。
















next


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ベタッタベタと言われようが、やっぱり王道!
『目覚めのキス』
…ということで予想していた方、大正解です(笑)


(2004.05.29)