「……それじゃあ、お世話になりました。どうもありがとう!」 8月31日の早朝、細かく煉瓦のしきつめられた空目宅の玄関前で、くるりと振り返っては頭を下げた。足元にはこの季節一人分の荷物。 見送りに出てくれた少女は、いつものように数秒まごついたあとに、また明日、と小さく言った。もちろん、と即答する。 ちなみに空目本人は見送るなどという愛嬌のある真似はせず、今頃は鉄壁のマイペースで読書にいそしんでいるはずだ。いちおう彼にも挨拶はしたのだが、まとめて「ああ」の一言で、一瞥とともに片付けられてしまったので、ヤツにそういう愛想を期待するほうがそもそもの間違いであると実感し直したである。 (ここに一ヶ月もいたんだよなあ……) あの魔王陛下のお宅に一ヶ月も滞在してしまったのだ。しかも無事に生き残れている。 本当に無事だったかと訊かれると一部正しくないこともあったが、こうして現在健康きわまりない状態であることを考えると、意外にも空目宅は住み心地のいい場所だったのだろう。夏休みが終わり、もう当分は確実に来ることがないと思うと、何やら感慨深いものがあった。 いつまでも律儀に玄関から見送ってくれる少女に名残を惜しみつつ学院に向かう。 ――この約二週間後、またもここを訪れることになるなど知りもせずに。 18.波乱の教室 学生の長期休暇明けには頼んでもいないのに実力テストがどっしりと待ち構えている。 定期テストとは少々趣きが違う休み明けの洗礼。 それに皆が必死になっているときはまだ良かった。 テスト勉強テスト時間テスト結果。誰の頭もテストでいっぱいである。 だが――テスト期間が終わってしまえば、生徒たちの注目は別に行く。特にに深く関わってくるのは運動部のスケジュールだ。 きびしい夏が終わり、秋から冬にかけての大会が間近に迫る昨今。 各運動部はそれぞれ選手の精鋭化に励み、一方でよりよい新戦力をゲットするために目ぼしい人材の勧誘に急ぐ。 たいへんけっこうなことである。天高く食べてばかりでは馬すら肥え太ってしまう秋、しかしそのぶん爽やかに体を動かせば何の問題もない秋。 いいねえ青春だねえと思う。自分に害が及ばなければ。 そんなわけで実力テストの結果などすっかり喉もと過ぎ去る9月中旬のある日、は朝から晩まで暇を見つけては逃げ回っていた。なぜならば弱小運動部の勧誘係がそれこそ朝から晩まで暇を見つけては神出鬼没に勧誘しに現れるからである。 選手層の厚みに乏しい弱小運動部にとって、スポーツテストで優良成績を修めながらも文芸部などという帰宅部もどきに二学期が始まってもなお所属している人材は、あまりにも貴重すぎて勧誘せずにはいられないのだ。今までの経験から断られるとわかっていても「もしかして」と一縷の希望にすがり、勧誘勧誘また勧誘。見事に逃げ切られたとしても、その脚力と運動センスに改めて惚れ直してドツボにはまっている。 いっさいやる気のないにとってはひたすら迷惑な話ではあるのだが。 (つ、疲れた……) 毎日毎日もはや日課のようになりつつある追いかけっこ。 当初はまともに会話をしてから断っていたも、最近では勧誘係の気配を感じるなりとっさに身を隠すようになった。死角からの視線でも鋭敏に察知してしまう悲しい性に、かの魔王陛下からは読書の合間にものめずらしげな目で見られる始末だ。 今日も今日とて追っ手を撒ききった放課後、逃げ込んだ無人の教室に身を潜め、自販機で買ってきたばかりの冷たい緑茶缶にやっと頬ずりする。ダッシュに次ぐダッシュで温まった身体に、アルミの堅くひやりとした感触が心地いい。 教室内は無人と知りつつ、念のため、教卓の下に身を寄せてくつろぐ。 固定の大きな教卓は、人間一人が寄りかかってもビクともしない頑丈な作りに付け加え、さらに4つの縦側面のうち3つは隙間なく仕切りがあり、他からはかなり発見しづらい。 (ここならちょっとゆっくりしても平気だよね) ホッと息をついて、肩の力を抜く。 こんなところでなければ一安心もできないおのれの現状にたそがれたい気持ちもあったが、とりあえずは仕方がない。早めに女子寮に帰ったところで追いかけっこのステージが変わるたけの話なのだ。 (微妙にほこりっぽいけど、この絶妙な狭さがなかなか……) ポジティブに気分転換をしながら手のひらに缶を握っているうち、うとうとと眠くなってくる。ゆるく下がりそうになる目蓋を、それでも数回はしのいでいたが、そのうち耐え切れなくなった。 ……少しだけ。すこしだけなら… 自分に言い訳をしつつ、疲労感から来る眠気にそっと身を任せる。 ――思えばそれが間違いのもとだった。 自覚していたよりもずっと疲労がたまっていたのかもしれない。 すやすやと眠り続けてしまったは、自分が寝入ったあとすぐに、教室内に数人の生徒が入り込み、おかしな行為を始めていたことにまったく気がつかなかった。 ようやくたたき起こされたのは、誰かの盛大な悲鳴によってである。 ――きゃあああああああああああああああああっ! つんざくような、という形容がぴったりの、ぎょっとする声だった。 教卓の中にいるということも忘れてハッと顔を上げたは、勢いよく教卓の板に頭をぶつける。声もなくひとしきり痛がったのち、ややあって周囲の状況に疑問を抱いた。 (……真っ暗すぎる。時計はまだ6時なのに) 夏至のころに比べてずいぶん日が短くなったとはいえ、あまりにも暗すぎた。 第一、窓から入ってくるはずの校庭の照明もない。 (というか……なんか大騒ぎだよ知らないうちに) 寝こけている間にここの教室利用者が増えていたらしい。 真っ暗なので声を聞くかぎりでは、少なくとも3人以上。 先ほど教卓に頭をぶつけた音での存在に気づかれてもよさそうなものだったが、幸か不幸か彼らの誰一人として教卓を気にしている様子はない。 なぜか、ひっきりなしに数人の悲鳴が上がっている。 ――きゃあああっ! ――っ、あっ、わあああ! ――ひぃっ、いやあァ! 重なって、机や椅子が倒れるような乱暴な音も聞こえてくる。 それが一体どういう事態なのだか、にはさっぱり理解できなかった。 悲鳴と意味不明な言葉が聞き取れるものの、何しろ暗闇なので、彼らが実際に何人いて、何に驚き、何に悲鳴をあげているのか、そういう基本的な事柄すら不明なのだ。 わかっているのは、彼らがとてつもなく恐怖し、混乱していることくらいだ。 (こ、声をかけたほうがいいのかなー…。いや、さらに混乱させそうな気も……) パニックに陥っている集団に声をかけるのはただでさえ勇気がいる。 恐慌している人間と傍観している人間、このテンションの格差はちょっとやそっとで壊せるものではない。けたたましい物音と悲鳴はまだ続いている。 ――ァ――! ガタッ…、ガッ。ガタンッ。 えーと。ていうか関わりたくないんですけど私…。すっかり腰が引けているである。 ああ、なるべくならこのままトンズラこいてしまいたい。 しかしさすがに状況も把握しないうちから一人だけ逃げ出すのも気が引けて、どうしたものやらと困り果てていると、「…!」突然ザァッと教室内を締め切っていたカーテンが開かれた。 暗闇に慣れだしていた目にあざやかな夕日がまぶしい。 文字通り暗中模索な状況がこうこうと照らされる。 それがうまく彼らに作用したのか、教室内の恐慌状態も我に返ったようにピタリと収まった。一変してシンとなった室内にへたり込んでいた顔ぶれに、は驚いた。 (稜子ちゃんに…武巳くん!?) いったいナニをやっているのだこんなところで! 教卓の中から半身を乗りだしつつ、見知った友人2人に目を丸くした。 他には3人の女生徒がいるようだ。 1人は倒れ、1人は糸が切れたように座り込み、1人は窓際に立ち尽くしている。 なぜかその武巳と稜子以外の3人の服装が、あまりにも怪しい。黒というか紺というか、そういった地味な濃色で全身を包んでいるのである。 (……おーいおいおいおい、ほんとにナニしてたんですか君たち) 放課後の空き教室ひそかに服装をそろえた数人が集まって、この残暑の季節に厳重にカーテンを閉め切ったあげく、悲鳴と混乱の事態が勃発。とても尋常ではない。 この広い教室の前方にいるの位置から、中心部にいる彼らの会話は、なかなかはっきりとは聞き取ることができないが――すぐにピンと来るものがあった。 首の後ろがざわざわと何かの気配を訴えている。 つい彼らの混乱に気をとられて察知が遅れたが、これは…… (……うわ、きっつー) 教室内に濃密な『彼ら』の気配がする。 こんなことなら気づくんじゃなかったと内心で涙した。こういうモノは一度注目してしまったが最後、どんどんずんずん連鎖して感じとってしまうものなのだ。少なくともは典型的な芋づる式タイプだ。 えてしてえんえんよくわからん主張を続ける『彼ら』に付き合っていても仕方がないので、経験上、はてきとうなところで切り上げることにしている。感覚的にいえば「また今度ね〜」となだめつつバッサリ意識を切り替えるのだ。 (うん、そうしよう。今はそれよりも稜子ちゃんと武巳くんが気になるし……) はさっさと注目を絶ってしまおうとした。 ところが―― (……あれ?) 手ごたえのなさに思わず眉をひそめる。 意識を切り替えるのはそう難しいことではない。四六時中そこらへんにいる『彼ら』と接しているにとっては日常的に行っているコツの一つだった。 苦もなくできるはずが――否、いつも通りできてはいるのだが、なぜかまったく効果がないのだ。意識が切り替えられない。 (ま、まずいよ、これは……!) そんじょそこらの『彼ら』でないと気がついた瞬間、くらりと眠気が襲い掛かった。 あわてて頬をつねりつつスカートのポケットから携帯電話を取り出して、通話をかける。 呼び出し音が10回を超えてもつながらない。持ち主がそばにいないらしい。 舌打ちでもしたい心境で通話はあきらめ、今度はメールを打ち込んでいく。 こうしている間にも、強烈な『彼ら』の気配がじわりじわりと押してくる。 何度も「いいから帰れ!」とか「間に合ってます!」とか念じながら拒絶しているというのに、いっこうに聞き入れる気配がない。 この強引さといい、ねちっこさといい、はげしくこの夏のエピソードを思い起こさせる。 ――“ いいか、。 ” あの夏の一件からこっち、一度だけ空目がこう言った。 これは忠告だ、と彼は前提した。 ――“ もしもまた『壁』が過剰反応するようなことがあれば俺を呼べ ” 壁の拒絶反応で深い眠りに着く前に自分を呼べ、と。 どんな魂胆でそんな親切を申し出たのか彼の真意は不明だが、おそらく怪異とやらにに立ち会いたいのだろうと思う。魔王陛下の好奇心はもっぱらそっちの危ない方向に向かっているのだから。 (……うっ、やば。だんだん眠くなってきた) もう稜子や武巳たちの様子を心配する余裕すらも容赦なく削られていく。 空目の察しの良さを信じて必要最低限の内容だけを打ち込み、変換もおざなりに、とにかく送信ボタンを押した。 やがて送信が完了したことを告げるメッセージがあらわれると、はホッと教卓の内壁に背を預けた。やれるだけのことはやった。 (ねむ……。……) 彼以外の人間にはきっと意味不明なメール。 それが早めに彼の目にとまることを願って、ふ、と目蓋を閉ざした。 意識が完全に落ちるまでの少しの間に、 いっしょにあそぼう、と小さな男の子の声がした。 いっしょにいこう、おねえさんもつれてってあげる。 次第に近づいてくるその声に答える余裕はなかった。 それをどういう反応と思ったのか、少年はうれしそうに笑い声をたてる。 ―― まって い て ぜったい に むか え に い … その言葉を最後まで聞くことはなく、意識のすべてが『壁』に包まれた。 ――結局のところ、の土壇場の呼び出しは功を奏した。 前回なんと3日間も眠り続けてしまった『壁』の拒絶反応は、今回、たったの1時間程度で解かれることとなった。 それはつまり、『あの方法』を使うのだと――もわかっていたのだが。 「…………。……あ、ありがとう」 「いや。それよりも説明してもらおうか」 黒い双眸、白い貌、低い声。 読めない表情と完璧な黒づくめ。 目覚めたとたんに彼の顔は心臓に悪すぎるが、背に腹は代えられなかった。 だが。それでも。 …寸前まで重なっていた唇に残っている感触は、やっぱりとてつもなく心臓に悪いような気がする。何とかならないだろうかこの方法。 規格外の神経を持つ空目はあっさりと「他に方法がないのだから仕方がない」しごく淡白にのたまった。 …さすがだ、やっぱりだ魔王陛下。常人の雑念など一顧だにしない。 達観の眼差しで遠くを見たくなったは無駄な会話をする気力もなく、即座に話を聞きたがる空目のそでを無言で引っ張って、ひとまず校舎から脱出した。 あの強烈な『彼ら』や、稜子たち数人の姿はすでにない。 しかし、いつまでも問題の現場に残るのもごめんだった。変なものでも残っていた場合、また同じ結果になる可能性がある。 「…私もよくわかってないし、どうしても主観が混じるんだけど、それでも聞きたい?」 「聞かないことには始まらん。それにお前の『壁』が反応するほどの原因が、もし怪異たったならば、これで終わらず長引く危険性もある」 「うっ、笑えないよそれ……」 寮の門限の関係上、それほど時間をかけて説明はできなかったが、理解の早い空目は的確な質問を挟み、実に短時間で多くの情報をに話させた。 教卓の中に隠れたまま眠ってしまったことから始まり、5名の生徒が怪しげな行為に及んでいたこと、その中に稜子や武巳が混ざっていたことなど、忠実に思い出すままに喋りきった。 「――なるほど……。近藤と日下部にも話を聞く必要があるな」 聞くだけ聞いた空目は、しばし黙り込んだ後、独り言のように言った。 これはつまりこの話題を打ち切る気まんまんの合図である。 「……まだ何とも言えないってこと?」 「判断材料が少なすぎるだろう」 「それは確かに。明日の朝イチにでも二人をつかまえるしかないね」 「ああ」 内容が内容だけに気が重い話ではあるが、放っておくわけにもいくまい。 はまた何か余計なところでとんでもない厄介ごとに関わってしまったような予感をひしひしとかみ締めつつ、その日はそのまま空目と別れ、大人しく女子寮に帰った。 なんという長い一日だったのだろうとどんより振り返りつつ、機械的に夕飯を食べ、入浴し、髪を乾かし、ベッドにもぐりこんだ。 少しでもまともな睡眠をとって体力と気力を回復しようとした――その夜。 無邪気に笑う、小さな男の子の声がする。 ねえ、ねえ、と呼んでいる。 肝心の姿は見えず、その声も心なしか遠かった。 いっしょにいこう いっしょにいこうよ… 声の距離から見当のつく場所にも、影のひとつもなく。 甲高い笑い声ばかりが響いている。 いっしょにいこう いっしょにあそぼう ―― ぼくが かならず むかえにゆくから |