一難去ってまた一難。
 事態を明確に理解したは顔で笑って心で泣いた。
 運命とはいつもなかなか小憎らしい仕事をしてくれる。

「ふっ…。そうだよね、現実はそんなに甘くないよね……」

 でも多分いきなりあっちに戻ったら間違いなくナチュラルに発狂すると思うんだ…!
 おごそかに腕組みしつつ無意味に胸をはって笑顔。
 すさまじい困難が目の前に立ちふさがりすぎた現状――逆境ともいう。

 彼女はすでにすっかり居直っていた。













24.修行の旅















 なんというかアレだ、もうこうなってしまったからには仕方がない。うしろを振り返ったら負けだ。振り返ってもどうせそんなにわけがわからない。そこにつっこむことにエネルギーを使うよりも、きっともっと別の方面でがんばったほうがエコロジーだ。

 そう。試練にぶちあたったときはいつでも。
 できることから地道に行動してみる他にできることはないのだ。

 いちかばちかの幸運を頼みに今すぐ空目宅に戻るという究極の一手もあるが、それはありていにいって地上50メートルの高さから紐なしバンジーをするくらいに無謀なことだった。いかに早めに現実世界に帰りたかろうとも迂闊に実行してはいけない。まず間違いなく潰れたトマト、もとい廃人コース一直線だ。

 たとえば、今まで大海原ですごしてきた海水魚を、突然真水でいっぱいの上流に放り出したら、海水魚はたちまちのうちに死んでしまうだろう。その海水魚がもともと川で生活していたとしても、急激な環境の変化はたやすく生命をおびやかす。
 ――ということは。

「陰之くん」
「賢明な判断だね」

 あえて説明せずともツーカーで丸わかりの魔人は、心得たように頷いた。

 つまり、急激な変化がマズイのならば、少しずつ慣れていけばいいのである。だいぶ時間はかかってしまうが、明るい未来のためにはどうしても必要なことだった。
 コンセプトは“鮭に学ぶ大移動”――
 差し出された大きな手の上に、少女の手のひらが乗せられた。

 そして音もなく、雪の舞う境内に、誰の姿もなくなった。








 まずは情報量約二倍。

 親切にも水先案内人こと神野陰之がそんなふうに解説してくれた一番初めの世界は、一面真っ暗の大規模停電状態な空間だった。はっきりいって視覚だけに頼るのならば、上も下も右も左も、まったくわからない――が、今のはそのかぎりではなかった。

 まず、数分ほど唖然として棒立ちに立ちすくむ。
 その間、おそるおそる目を閉じてみたり、耳をふさいでみたりする。ついでに鼻もつまんで、唇も舐め、頬をつねってもみた。
 ひととおり五感の感覚を確かめると、は再び動きを止めた。

 やがて、渋面でうめく。

「……ものすんごいうるさい」

 そこは静寂の暗闇の中。
 何も見えず、何も聞こえず、何の匂いもせず、むろん何の味わいもなく、触るものは神野陰之の手のひらだけという場所だった。

 ――ところが、大勢の気配がするのだ。

 バーゲンセール会場のように、どこかしこに、たくさんの何かがいる。
 見えるわけではないし、聞こえてもいない。
 だが、確かに視えるし、聴こえていた。
 それが今のには充分にわかる。どこで知覚しているか意識したことのない、どこかの部分が、今までと比べれば嘘のようにフル稼働している。

 強いていうならば、眉間と後頭部をつなぐ線の途中。
 そこに意識を集中すると、より明瞭に『わかる』代わりに、五感の情報がどんどん霞んでいく。

(……これで、たったの二倍?)

 冷や汗が出た。
 動揺しまくりながら心中でつぶやくと、是と魔人が答えた。

「かつての君が処理していた情報量の三分の一にも満たない」

 マジでか。

 思わず反射的につっこむと、これにも魔人は是と答えた。意外と律儀な男である。
 そう言われてみると何だかそうだったような覚えもあるは、すごすぎるぜ昔の私、そりゃ普通じゃないよアンタ、と苦し紛れの独り言をぼやいて頭を抱えた。

 ……ああ。こんなに第六感方面がやかましすぎたのでは、通常の五感に対する反応がおろそかになっても無理はない。そして、そんなこととはつゆ知らぬ周囲から浮きまくっていても、否、むしろそのほうが自然というものだ。

 切なく判明した事実に遠い目をしているうちに、あっという間に一時間経過。

「え、もうそんなに!?」
「ここは人間の生息する時空間よりも本質的に精神世界に近い。あちらの十年が一瞬にすぎないこともあれば、その逆もまた然り」
「……なるほど。すんごい時差があるわけね」

 さすが異界、時間の流れ方も一風独特であった。
 今更ながらにとんでもないところに来てしまったのだ、とひしひしと感じるである。しかも、これからさらにいくつもの異界を経験しなければならない。
 恐怖のあまり、さすがの彼女もぶるりと肩を震わせた。

「まずい……この調子じゃ二学期が終わる!」

 留年の危機…!
 唐突に発覚した切実な問題が、にわかにのやる気をかきたてた。
 合言葉はなせばなる、なさねばならぬ、ネバーギブアップ。

「……よしっ、陰之くん! 次行こう、次」

 夜闇の魔王の真っ黒な外套をしきりに引っぱり、は先を急がせる。
 彼はしばし少女の頭をまじまじと見下ろしていたが、やがて納得したように一つ頷くそぶりをすると、大きく外套を広げ、暗闇の中から彼女の存在を切り離した。

「闇の侵食を恐れぬ者に闇の手は届かない……これもまた <特異点> の性質だったね」
「だって留年だって充分怖いじゃないか…!」

 当たり前のように差し出される手に当たり前のように重なる手。
 いまいち緊張感のない会話を残して、二人は再び闇に溶けいるように消失した。








 そうして。

 およそ十年ぶりに目隠しの外れた少女は世界を渡る。
 約束の魔王をつれ、その実必死ながらも、傍目からは戯れるように。
 幾千の扉を開け幾万の世界を渡る。

 稀なるかな妙なるかな<特異点>――
 ほとんど無自覚な力の行使は、すでに始まっていた。








 ひそやかに世界を揺るがす覚醒を悟った魔女は、池の縁から夜空を見上げる。

「そう……とうとう壁が壊れたの。じゃあ、もうすぐ本当の彼女に会えるね」

 魔王に追い払われて泣き続ける少年の頭を撫で、十叶詠子は微笑んだ。
 もうお行き、と促すと、形をあたえられたばかりの子どもは闇に溶けるように消える。ややあって、その行き先を知り、魔女は 「へえ」 と驚きの声を上げた。

「会いに行くの? 行くんだね、今まで一度も足を踏み入れたことのない世界でも。引き寄せられるみたいに、自然とその道を選ぶんだね。なるほど、そういう影響の仕方なんだ……」

 池のほとりの魔女は天を仰ぎ謳うように言葉を紡ぐ。
 しかし、少しばかり困ったというふうに眉が下がった。

「……予想外。これはちょっと、持て余すかもしれない」

 くるりと踵を返すと、スカートの裾がふわりと舞う。
 魔女のこぼした小さな弱音を、聞く者はついになかった。











 ―― 一方、空目邸。

 かの “そうじさま” にまつわる仕掛けの黒幕が魔女と判明し、森居多絵の両目がうしなわれ、救急車に搬送されていったあと。
 深夜の時刻、それぞれが心身ともに一定以上の疲労を覚えていたが、誰一人として休む者はいなかった。皆が皆、貝のように口を閉ざして、リビングルームから離れない。

 空目はソファに背を預け、ただじっとうつむいている。
 ほんのついさっきまで救急車のスタッフを相手に、堂々と多絵の負傷した経緯をでっちあげてきた彼は、しかし彼らが帰った直後から一転して無言を貫いていた。
 そんな彼につられるように、俊也や亜紀たちも各々の思考によって沈黙する。

 収束したように見せかけた事態だが、本当は何も終わっていない。
 神隠したる “そうじさま” がいなくなったわけでも、失踪した人間が戻ってきたわけでもない。
 あのさえも消えたまま――

 多絵ちゃん、ちゃん……。
 稜子が弱々しい声でつぶやく。その目元は真っ赤に腫れ、顔半分に押し当てたハンカチはすでに涙で完全に濡れていた。

 稜子の隣に座る武巳も、顔色が紙のように白い。
 武巳は消えてしまったが連れ去られる場面をはっきりと夢に見ている。
 彼女の両目をおおった目隠し。唐突にあらわれた神野陰之。
 そして、見ているだけしかできなかった武巳。それは決定的に彼女がいなくなってしまってから何度も思い出す光景だった。

 押し黙る面々を見回したあやめは、一人おろおろと立ちすくんでいた。
 空目たちの思案顔、稜子の泣き顔、武巳の慙愧にかられた顔、それらすべての表情に気がつくたびに、ひどく戸惑う様子だった。
 何度か小さく口を開けては、泣きそうになって閉じる、といった仕草を繰り返す。

「あやめ、ちゃん……?」

 一番最初にそんなあやめに意識を向けたのは、例の夢を反芻していた武巳だった。
 どうしたの、と力なく問いかける。

 あやめは話しかけられたことによって全身をびくっと大きく震わせたが、やがて何秒もの沈黙のあと、緊張にわななく唇で答えた。
 空目や亜紀たちの視線の中、にわかには理解しがたい言葉を。

「……あ、あの人は……あの人、は……。き…消えて、ません」

 その意味を悟るのに、武巳には一瞬では足りなかった。亜紀や稜子、俊也も同様だった。
 ただ一人、空目だけが真っ先に反応した。

「それはのことか?」

 小さな神隠しは小さな動作で、それでも確かに頷いた。
 ここでようやく亜紀たちが目をみはる。

「どこにいる?」
「あ……あの……。こ…こことは、違う、世界に」
「異界という意味か?」
「……い、いえ……」
「この世界ではない、しかし異界でもない?」
「…………」

 矢継ぎ早の空目の質問に、ついにあやめは顔色を蒼白にし、目に見えるほど震えだす。後半部分はほとんど首を振る動作によって肯定か否定かを示していた。

 いくつもの問いを投げかけた空目は、いったん間を置き、最後にこう訊いた。

「これは明確に押さえたい。始めに、は消えていないと言ったな」

 空目の座るソファ前のテーブルには、彼のものではない携帯電話が昨夜のままそこにあった。
 いつだったか、電池切れを起こしたそれのために充電器を貸したことがある。
 あのとき、思わぬ空目の行為に彼女は最初目を丸くして、まじまじと充電器と空目の顔を凝視した。しかし、怪訝そうな顔つきが変化していくのに、そう時間はかからなかった。
 ありがとう、と笑って。
 忘れてしまっても差し支えないだろう記憶が、なぜか今も鮮やかに残っている。

「――は生きているのか」

 神隠しのように姿を消して、なお。
 絶望的な彼らの経験則による予想をくつがえして。
 えんじ色の少女は、果たして、同じように声もなく応えた。









「――しっ、死ぬ……!!

 空目宅で文芸部の面々がシリアスな会話を繰り広げているころ。
 がくりと地面…だかなんだかよくわからない空間に膝を突き、はテンパりまくった声で盛大にうめいていた。
 すでにもう自然と両手はがっしりと頭を抱えるポーズである。

「う、うるさい、うるさすぎる……! 頭がパンクする、気が狂いそう……」

 およそ情報量五倍、と神野が説明した空間でのことである。
 これでようやく、かつてのが処理していた情報量の約半分に値するらしい。

「ううう。うるさい、うるさい、うるさーいっ!」

 両手で両耳をきつくふさいで、聞き分けのない子どものように何度も叫ぶ。そうでもしなければ、本当に今にもどうにかなってしまいそうだった。
 流れ込むたくさんの声、音、気配。ざわめきにささやき。本質に真実。
 こうして力いっぱい耳をふさいだところで聴覚でとらえているわけではないのだから、実はまったく意味がないのだが、せめて気分的な効果を狙ってみたのだ。もうとっくに、なりふりなどかまっていられない。

 これはきびしい――きびしすぎる。
 急に二倍から五倍にしたのは、やっぱりまずかったのかもしれない。

「か、陰之くん……!」

 無理! わたしが悪かった! ヘルプ!
 全身全霊の眼力でもって伝えると、それまで平然との様子を眺めやっていた魔人は、一つ、口元だけで笑って見せた。

 次の瞬間には、ぱっと違う空間に移動していた。

 視覚的にはわけのわからん場所から同じくわけのわからん場所に移っただけのことであるが、の感覚では格段の差だった。
 うつむいて縮こまっていた背を伸ばし、顔を上げる。

「ここは……情報量二倍のところ?」
「その通り。同一空間に属する。やや座標は違うがね」
「なんとなく、この聞こえかたに覚えがあったから……」

 は両耳から手を離し、おそるおそる感覚を広げた。
 ここはこんなに静かなところだっただろうか。
 初めはあんなにうるさいと思ったのに、今は少しさびしく感じるほどの静寂がある。たとえるならば、コンサート会場と夜の墓地くらいには明瞭な違いがあった。それがわかるようになっただけ、もしかしたら五倍の世界の “うるささ” に慣れたのかもしれない。

「……なんだか、基準がわからなくなってくるね」

 ぽつりとは言った。
 すぐそばにたたずんでいた神野陰之は沈黙で返す。

「ここよりも、あの雪の降る神社のほうが何倍も静かだった。でも、今はここがこれ以上ないくらい、何の物音もしないように思える……」

 意見を求めるように隣の男を見上げると、夜闇の魔王は眼鏡の奥の目を細め、笑みを深めた。夜色の外套をふわりと広げ、そのままを包み込む。

「それらの君の判断は、等しく君の感覚によるものだ。そして、君の感覚のすべては君の主観が支配している」

 覚えておきたまえ、と彼はささやく。

「君の主観が――君の意思が、希望が、恐怖が、覚悟が――<特異点> の変換の指針となる。君の意識と無意識の中が、すべからく変換に作用する。人に宿った <特異点>  の属性は、そういった形で触れ合った世界に影響を及ぼす」
「……つまり?」
「君の基準の決定に、他者の介在する余地はないといえる」

 どうしても回りくどい表現を使う男だった。
 大体の主旨はなんとか理解しつつも、にはいまいち意味不明だった。それが伝わったのだろう、神野陰之は重ねて言った。

「君が決めるといい。君の触れる変換はそれに従うだろう」

 穏やかな声。
 と一緒に世界を渡るようになってから、彼はよくこんなふうに話す。
 彼独特の陰鬱さがなりをひそめ、常に微笑んでいるような口調はそのままに。
 ときに、生身のやさしい人間のように。

 わけのわからない男、と何度思ったか知れない。記憶を取り戻した今となっても、その得体の知れなさは共通している。
 底知れないイメージ。理解してはいけないものを相手にしている感覚。
 けれど――彼は、の大切な魔王だった。

「従うっていうと……もしかして、ちょっとは陰之くんにも影響ある話?」
「そうだね。私も君の <特異点> の変換を継続して受けている。影響は甚大でありこそすれ、少なくはない」
「……うーん。そっか……、そんなことになっちゃうとは」

 どうやらおのれが行っているらしい変換とやらに全然実感のない彼女は、これは困ったというように頬をかく。
 内心では本当に困惑していた。今の話で考えてみると、このところの神野陰之の思いもよらない変化の数々は、の意識だか無意識だかによって <特異点> の能力が作用した結果ということになる。

(それじゃ、わたしが……勝手に、一方的に、陰之くんを作り変えてるってことにならない?)

 よくよく考えてみれば、なんという恥ずかしいことを。
 幸か不幸か、神野陰之の変化については無意識の産物であるが、あまり慰めにはならない。というか逆に恥ずかしい。
 いつの間にか無意識のうちには、こんなふうに人間的な彼を望んでいたのか。

 当の魔王は、くつくつと愉快そうに笑っていた。
 例によって例のごとく、つつぬけになっているらしいの心情と思考を読み取った彼は、「忘れてはいないかね」 と外套で包んだ彼女を見下ろす。

「……私がそれを望んだ」

 力の源たる彼は、おのれの願望を持たなかった。彼がたどりついてしまった場所は、ヒトからそれほどに遠かった。到達点は世界の深淵。その彼が、の影響によって望んだこと。

 ――そばに。

 もうわかっていたことだったが。
 それを言われてしまっては、にはもう手も足も出ない。

(ああ、もう……。穴があったら入りたい)

 最高に落ち着かない展開に耐えられず、は再び 「今度は情報量三倍くらいで」 と空間移動を促した。とことん付き合いの良くなった彼は、実に忠実に彼女をつれて世界を渡る。瞬きほどの時間もかからず、急激に倍加する “うるささ” がそれを伝える。
 あのいわくいいがたい雰囲気のまま二人で居るくらいならば、何も考えられなくなるくらいやかましいほうがはるかに気が楽だった。









(お願いだから、そんな顔で笑わないで)

 心臓に悪い、と言いたくて言えなかった言葉は、やはり葛藤の意味はなかったのだろうと思う。
 なぜならば、非常にイージーにつつぬけであるからして。

 ――ふと見せた、ひどく面白がるような魔王の笑みがすべての答えだった。












next




なんというか引き続き神野さん出ずっぱりです。
も、もう一人の魔王様もちょっとは出てますよ…!(汗)

しかし <特異点> の設定的にわりと予想できたことだったんですが
原作のキャラとどんどんかけ離れていってますよね、神野さん…。
…………。
…い、いいのかな、これで…。(超弱気)



(2005.12.31)