触れてもいいか、と。 そう言ったその人は、どこか幼子のような目をして指を伸ばすので、 なぜ、だとか、駄目、だとか、そんなことは言えなかった。 ……ゆっくり触れてくる指先が、少しだけ冷たかったのを覚えている。 17.夏の夜の君 飽くなき限界への挑戦を強いられるとき、また一つの目的に向かって全力投球する場合、人間は他の些細な事柄すべてを忘却することができる。 それはにとっても例外でなく。 「…………」 「…………」 空目宅のリビングでテーブルを挟み、村神とはお互いに向き合っていた。時折短く言葉を交わす以外はほとんど無言と言ってもいい。そんな二人をあやめはおろおろと見つめ、そのそばのソファに背を預けた空目ははなから無頓着に読書に集中している。 ミーンミンミンミン。 窓ガラスを隔てた室内にまで蝉の声がやかましく響いている。 あと小一時間ほどで正午を迎えようという現在、太陽の位置とともに蝉の騒音はますますヒートアップするばかりだ。それに同調するように村神との間の空気も高まっていく。 じりじりとした沈黙を破り、「……村神くん。いいことを教えてあげよう」ぽつりと転校生は短く告げた。黒い瞳が三日月のように細まる。 「君は私に勝てないよ」 「……!」 「こてんぱんに負ける。だから」 今のうちに勝負を降りたほうが身のためじゃない? これをさも親切そうに言ってのけるだったが、俊也もはいそうですかと勝負を投げるような性格ではなかった。逆に彼女の挑発とわかっていながら乗ってしまうような気質である。 とうに腹は決まっていた。 ――じゃあショウダウンと行きましょう、と彼女の手札がひるがえる。 同時に俊也も手持ちのカードをすべて揃えて並べて見せた。 彼の5枚と彼女の5枚が、今まさに対決する。 事態を見守っていた神隠しの少女が緊張した面持ちからきょとんとなり――してやったりと満開の笑顔になっていくを見ていた。 ……結果。 俊也は嘆くように固く目蓋を閉ざしたあと、ため息一つで立ち上がる。 「わかってる、約束は約束だ……」 「うん、健闘を祈る!」 勝者たる転校生は、暗雲を背負いつつ戦場へ旅立つ男を見送る。 次に彼が戻ってくるとき、おそらくその手には具の彩りも鮮やかな冷やし中華の皿が乗せられていることだろう。俊也以外の者はひたすらここでそれを待てばいい。 夏場の台所を敗者に賭けたポーカーゲームであった。 大迫栄一郎関連の事件がひとまずのところ収束して数週間がたった。 ことの始まりは、そんなふうに八月も半ばを過ぎ、夏の盛りも越えようというころ、一度だけ何かの些細な用事で俊也があらわれたところからの話である。 空目宅の近所に在住するという彼は、そのとき手土産にスイカを持って登場した。 井戸水で冷やしておいたという極上のスイカであった。 それだけでも美形と甘味と暑さに弱いの心を吸い寄せるには充分であったというのに、四六時中えんえん魔王陛下と顔を突き合わせていた彼女にとって「お客さん」の存在は新鮮かつ清涼なものだった。 かくしてにターゲットロックオンされてしまった俊也は、数限りない勝負事と巧みな挑発の嵐にさらされ、あれよあれよという間に毎日のように空目宅に通うようになったのである。 姓は村神、名は俊也。基本的に女子供とからめ手に弱い不憫な星回りの17歳であった。 今のところの勝敗結果はきわめて単純。 の全勝、俊也の全敗。 ここまで白黒ついているといっそ清々しい。 「……わかんねえ。なんでそんなに強いんだよお前」 「本当にねえ。わたしもそこが知りたい。強すぎない私?」 「俺に訊くなよ」 色とりどりの具材の乗った冷やし中華を食しつつ、敗者と勝者は首を傾げる。 すると、今までうまいともまずいとも言わずに麺を口に運んでいた空目が「直観力の問題だろう」と独り言のように告げた。 「直観力、インスピレーション。すべてではないがカード当ての透視能力と通ずる」 「……あー。なーるほど……。確かに無関係でもなさそうな……」 「相手の手札をさぐるポーカーゲームなど、高精度の透視能力があれば何でもない。つまり村神は自分の引いたカードを端からオープンにして戦っていたようなものだ。よほどの幸運でもなければ勝てるわけがない」 俊也が箸でカニかまぼこをつまんだままガーンと固まっていた。 平静を装った横顔が突然のショックを隠しきれていない。 一人あわてたのはである。 「……や、やだなあ空目くんたら……。それじゃまるで私がズルしてたみたいじゃ…」 「そういうことか、……」 「誤解だってば村神くん…!」 「確かにいかさまではないな。透視能力はを相手に戦う場合、最初から基本情報として考慮に入れるべきだ。よって戦略上で手札を見られると不利になるポーカー、大富豪などのカードゲームや麻雀は避けて通るのが賢明だろう」 「空目くんも真面目な顔でけしかけるんじゃないっ」 何としてでも男の意地で一勝くらいはしたい俊也が「オセロならどうだ?」と空目に確認し、友の視線を受けた魔王陛下が「ああ」と頷く。 そしてが唖然とする素早さで目の前にオセロ台がセッティングされた。 「…………いや。いいけどさ……」 勝ち逃げは許さん!と寡黙なはずの俊也の瞳が語っている。 ――誰だここまで彼を燃え上がらせたのは。……自分か。 あやめは再びおろおろと台を挟む二人を見上げ、空目はしれっと読書に戻る。とりあえずこのオセロ勝負は昼食の洗い物決定戦になりそうだった。 そんなふうにミーンミーンと蝉の声もやかましい真夏の日の今日この頃である。 その後。結論からいえば、の全勝記録に泥がつくことにはならなかった。 オセロにおいても俊也はなぜかに一勝すらすることもできず、異常に彼女が強いのか異常に彼が弱いのか、とにかく哀れな敗者は昼食の片付けどころか夕飯までこしらえて、今日のところは引き上げていった。 「……あ、あの……、さん……」 あやめとの二人で使った食器を片づけていたとき、例によって小さな声で少女がつぶやいた。神隠しの少女はめったなことでは発言をしないから、これはめずらしいことといえる。 どうしたの? となるべく優しくが尋ねると、少女は思い切ったように口を開いた。 「あの……さんは、いつまで……」 「……え?」 「いつまで…ここに……」 必死に伝えようとする少女の目が、声にならなかった部分までもに届けた。 ――さんは、いつまでここにいるんですか? そう訊きたいのだと思った。 虚を突かれ、思わずが目をみはると、どういう反応だと勘違いしたのか、あやめが焦ったように「ご、ごめんなさい…」と謝った。 「ええ? 謝らなくていいよ、少しびっくりしただけだから」 「……で、でも……」 「本当に気にしないで。……うん、もうすぐ夏休みも終わっちゃうから、寮に帰らないといけないころなんだよね」 「…………」 「今日明日の話じゃないけど、来週くらいには荷物まとめてここを出ないと」 がそう言うと、小さな少女は途方に暮れたような顔をした。母親に置いていかれる寸前の子供のような、心細そうな頬。 大丈夫、と少し笑って言った。 「また学校でほとんど毎日会えるんだから。あやめちゃんがずっと空目くんの近くにいるなら、当分はイヤでもさよならできないよ?」 わざと悪戯めかして片目をつぶると、やっと少女の表情がほころんだ。 内心、は思いっきりホッとした。 筋金入りの面食いであるからして、美形に泣きそうな顔をされると最高に困ってしまう。特に好みの顔に泣かれようものならば、何としてでも力になってあげたくなってしまうだろう。 (例えば空目くんが涙ながらに――いいや絶対ありえない!) 自分で考えたくせに電光石火で拒絶していると、ちょうどよくそこに空目恭一本人があらわれた。風呂上りらしく、髪が濡れて顔にかかっている。肩にかかったタオルすら黒なのは素晴らしい徹底ぶりだと褒めるべきなのかどうか、というつっこみはさておき。 その髪から落ちる雫が……ふと涙に見えなくもなかったりもして。 「、風呂に入るなら今のうちに……。……どうした?」 「な、なんでもない?」 明らかに嘘くさい否定であったが、どちらにしろ大して興味のない空目はわずかに片眉を動かすのみの淡白なリアクションで、さっさと二階へと姿を消してしまった。 ふう危なかった、さすが湯上りの美貌は油断できひんわ……となぜか関西弁に顎の汗をぬぐうふりをするを、神隠しの少女が不思議そうに見上げていた。 おおむねの家事を引き受けているは、当然のごとく湯釜の清掃上、入浴は最後である。 つまるところ浴槽に身体をひたしたあと、さっさと湯を抜き、手早く掃除までしてしまうのだ。 自然のなりゆきで長湯となりやすく、湯冷めもしやすい。 そして今夜もは微妙に冷えてしまった身体をあたためようと、適度にクーラーのきいたリビングルームで緑茶を入れていた。やわらかなクッションにうもれて香り高いお茶を楽しむのは、まさに至福のひとときである。 マグカップを両手が抱えて、ついボーッと終わったばかりの事件のことを思い出していた。の中ではあまり『終わった』とは言い難い自らの能力のことも。 怪異に対峙した文芸部の面々と、死んでしまった先輩、大迫栄一郎…… ――本当に欠けているかもしれない自分の記憶。 (……まいったよ、確かにろくに覚えてないんだもんなあ、子供のころのこと……) 特に小学校にあがる前の記憶。 別にそれほどおかしなことでもないと思って今まで気にも留めなかったが、こういう可能性が出てきてしまっては、にわかに落ち着かない気分だった。 壁。領域。そう読んだあの人たちならば何かを知っているのかもしれないが、とても訊く気にはなれなかった。十中八九まともに答えてくれないだろう。 (盲目の傍観者……) 殻をまとう者、領域を守る者。 ――“ 決してそこから踏み出さない ”…… それはに一つの事実を示している気がする。それはが知っていてもおかしくないことであり、知らないとすれば忘れてしまっているようなことだ。 知っているはずなのに忘れている感覚だ。 もっと言うならば、身体は覚えているのに頭が忘れているような。 「……一体なんだっていうんかねー…」 深いため息をついて、マグカップの中身を飲み干した。 テーブルの上にそれを置くと、はそのとき部屋の隅にいつの間にかたたずんでいた人影に気がついて、ぎょっとした。 その背丈から、この家に該当者は一人しかいない。 彼は相変わらず何の感情もうつさないような顔のまま、の向かい側のソファに腰掛けた。 無表情ではあったが、どことなくいつもと空気が違う。 うかつに話しかけられないような雰囲気だった。 「空目くん……? えーと、お茶、飲む?」 「ああ」 そっけないのは常日頃からであるが、それとはまたタイプの違う沈黙。 どうしたんだろうと思いつつ、はいったん台所へ戻り、二人ぶんのお茶をいれた。 手渡してみても彼はうんともすんとも言わず、受け取るのみである。 ――別に、そんな態度自体はめずらしくもないが。 「…………?」 空目との間に横たわった沈黙がにとって苦痛だったことはない。 合理的な彼の意図はたいていの場合あきらかであったし、空目恭一という人間は他人に向かって無駄に関心を向ける性格ではなかった。 しかし――このときは、どうにも、いつもと違った。 「……あ、そういえば空目くんに訊きたいことがあったんだ」 確固とした理由もなくあわてたは話題をさがして、かねてから気になっていた質問をした。 無言で空目が顔を向けてくる。 「あのときの状況がよくわからなかったんだけど……ほら、私が『壁』に眠らされて、君に起こされたとき。今までつい訊きそびれてて。私が村神くんから聞いた話だと、何かちょっと難しかったんでしょ?」 「――答えたはずだが?」 静かに空目は答えた。 本当? とは驚いて、かつての記憶をさぐる。 (……確かに……そういえば『実験』とか何とか……。……ん?) 実験……? 思わず冷や汗が背をつたった。 実験。深く考えていなかったが、実験といえば――そう、あまり…あまり思い出したくない種類のエピソードがあったような気がしないでもない。 つい確かめてしまいたいような決して確かめたくないような気分だった。 の葛藤を読んだわけでもあるまいに、空目がふと言った。 「――実験」 「えっ…」 「そう言ったんだ。あのとき」 きくりと身体が強張った。 マグカップを持つ手が固まる。 彼の口調が、あの『実験』だと示唆しているように聞こえた。 「じ、実験って……まさか」 「お前が以前に自分で言い出したことだ。――まさか、眠り続ける者を覚醒へ導くための『見立て』に使うことになるとは思わなかったが」 「…………!」 あまりのことには言葉を失った。絶句するしかなかった。 つまり、それは……と考えていくと、ものすごい事実に到達してしまうので考えたくないのだが、ついうっかり頭が思考してしまう。 まずい。はっきり気がついたら絶対にポーカーフェイスでいられない。 コト、と空目が中身の入ったカップをテーブルに置いた。 視線がかち合う。 は向かい側のソファに腰を埋めたまま、彼が立ち上がり、ゆっくりと近づいてくるのを唖然として見ていた。 白い手が伸びて、そっと顔に触れた。 驚きっぱなしのを見下ろす彼は、やはりいつものように無表情であり――しかし、その目がまったく普段と異なっていた。 こんな目をした人は知らない。 感情を持て余しているように見える、こんな彼は見たことがなかった。 顔に触れていた空目の手が離れ、代わりにの抱えていたマグカップをさらっていった。まだ中身の残ったカップはテーブルに置かれ、見下ろしたの手のひらは空になる。 ますます彼の意図が読めなくなったと困っていたら、久しぶりに相手が口を開いた。 「……触れてもいいか」 「は……、……っ!?」 「気が乗らないならかまわん」 無表情のまま、見知らぬ目をしたまま、彼はとんでもないことを尋ねた。 もともと驚き気味だったは、さらに目をみはった。 (触れ……て、って……) 思わず勢いで「ほ、本気?」と訊き返した。すぐに冷静な頷きが帰ってくる。 彼の態度と反比例するようには赤くなったり青くなったりした。 (おっ…落ち着け私……!) 今現在この場合の『触れる』とは、前後の話題からしておそらく握手の類ではなく、もっと段階的に親密なスキンシップを指し示す可能性が高く――などなど混乱しつつある頭で考える。 何かの冗談だと思いたかったが、例によって例のごとく、今までこういう場面で彼がジョークを言ったためしはない。というか彼はそもそも冗談を言わない。 本気なのかと訊くまでもなく…本気なのだ。 はどう考えても思考のドツボにはまって抜けられなくなりそうな気がして、数秒のうちに腹をくくった。 ――ええい、一回するも二回するも一緒だ…! 漢らしく決心する。 実際には三回目なのだが、二度あることは三度あるともいう。 「ど、どこからでもかかって来い」 一体何の答えなのかわからないような言葉で、ともかくも承諾した。 空目は何も言わず、かすかに頷き―― 最初に、彼の指が頬に触れた。冷房のせいか、少し冷たい。 感触を確かめるように、そして手のひらが顎から喉のほうへすべっていく。 その間、空目はずっとを見ていた。 視線をそらしたくとも、そうはできないような、あの目をして。 (……別人みたい) 目が、違う人のようだった。 あのもどかしくなるほどの鉄壁な無表情はどこに行ったのだろう。 間違っても今の彼を『感情がない』と評価する人間はいないはずだ…… 触れられるたびに騒がしくなっていく心臓をいやというほど自覚しつつ、つらつらとそんなことを考える。喉にかかった彼の手が今度はどこへ行くのか気が気でない。 「――止めたければ言ってくれ」 またそんな恐ろしいことを…。は戦々恐々とする。 どこからでもかかって来いと太っ腹なことを言ってしまった以上、この期に及んでつまらない文句はつけられまい。せめてお風呂上りで良かったと思う乙女心である。 行方の気になっていた空目の左手が背中へと回った。 そして右手が顎にかかり、かぎりなく間近に黒い双眸が見えた。 「………っ」 始めは唇と唇がふわりと触れるだけだった。 触っているのかいないのか判別のつかないそれが、少しずつ深くなり、とろけていった。 の頭の中はすっかり真っ白になっている。 数秒だったのか数分だったのか、とても長いように思われた口付けはいつの間にか終わり、気がつくと空目の手が離れていくところだった。 触れているうちは気づかなかった体温が、元に戻る。 様々な意味でぽかんとしている彼女とは対照的に平静な彼は、そのままソファのもとの位置に座りなおすと、飲みかけのお茶を再び手に取った。 見るかぎりでは、腹が立つほど平然としている。 「実験結果は保留だな」 思い出したように彼はぽつりと告げた。 まだどういう反応をしていいか混乱中のが「ほ、保留?」おうむ返しに訊き返す。 「保留だ。断定はできない」 「……なんで?」 「さてな。断定しかねる点があるがゆえに保留としか言えん」 明らかに彼はその答えだけで煙に巻く気まんまんである。 こういうときの空目の頑固さを知っているは、納得しがたい心地のまま、ひとまず引き下がった。繰り返すが、ちっとも納得できていない。 (……な、なんか…もてあそばれてるような気が……!) 好みジャストミートの美形を間近で見て触って、それはそれはとても役得ではあったが、少しばかり心がときめいたりしたのも嘘ではないが、何だか自分一人だけ空回っているかのような感が否めないのはなぜだろう。 (いいや気のせいじゃない、気のせいじゃないって……私だけだよ、こんなに空回ってるの) 爆弾を投下する彼はいつも涼しい顔をしている。理不尽だ。 消化不良の鬱屈にまかせてズズーッとお茶をすすっていると、やはり思い出したように空目が付け加えた。 「次回の結果いかんによっては結論が出るかもしれないな……」 ゴフッ。 思わず口に含んだお茶を吹き出しそうになったとて誰もを責められまい。 ――次回。それはとりもなおさず『次』もあるということだ。 しかし、ここでさんざん苦悩しきった結果の彼女の反応はこうだった。 「ど、どこからでもかかって来い」 なぜか無駄に漢らしい。 には自分で自分がわからなくなってきた。 いくらモロに好みの顔だとて、同じく好みの声だとて。それでいいのか自分、と自分につっこみをいれたい心境である。貞操観念というか道徳観念というか、さずにそういう良識がうずいてくる。まずいんじゃないかなーと思わないでもない。 だがしかし。 (問題は…………べ、別にイヤじゃなかったってことなんだよ…、ね……) ああっ、だから悩むんだってば…! ど、どうしようどうしよう――! 煩悶しまくる、なぜイヤでないのかには気づかない17歳の夏休みであった。 |