人間は古来より誘惑に弱い。
 イブもヘビにそそのかされたし、シッダルータもキリストも試練を受けた。
 偉大な先達のようにとりあえず一晩だけは根性で乗り切ったは、時間的にはしっかり眠っているはずなのに、思いっきり寝不足だった。

 ――いまだかつて、こんなに辛く厳しい睡眠があったであろうか?

 否、ない。絶対ない。
 当然のごとく反語で締めくくりながら、は登校してすぐ、文芸部へと急ぐ。
 目指すは仏頂面の黒づくめ。しかしもはや白を着ていようがピンクを着ていようが構いやしない。

 ばん! とドアを開けて、真っ先に視界に飛びこんだそれに突き進んだ。
 すでに登校して部室で過ごしていたらしい俊也と武巳が、ただならぬの様子に目をみはる。
 ただひとり椅子に座ったまま冷静に見上げてくる相手に、挨拶すら省略して一言。

抱きついていい?
「……かまわんが」

 ぎゅう。
 犬猫を抱きしめるように密着した彼女に、彼はされるがままだった。
















21.ひそかなる覚悟

















 実はその日は、(にはまったくそれどころではなかったが)、大部分の生徒や教職員たちにとっても朝から大変な一日だった。
 女子寮と男子寮の全棟に、赤いクレヨンで、まんべんなく――それこそ端から端まで膨大な面積を――落書きされまくっていたのが発見されたからである。

 まともに考えて人間業ではないこれが発覚してから、『機関』のとった行動は素早かった。
 まだ日も明けきらぬうちから、空目たち文芸部メンバーと“そうじさま”関係者を学校に呼び出し、この空前絶後ものの落書きについての意見を求めたのである。

 それに対し、空目は「これは間違いなく怪異だろうと思う」と発言した。
 次いで、仮に“そうじさま”が怪異だとして現在考えられる感染者は、連日のように目隠しをした少年の夢を見ている近藤武巳、中市久美子、森居多絵のうちの誰かであろう、となった。

 そして、あるいは……も。

 空目があえて『機関』に告げずにいる情報を、亜紀たちもまた、そ知らぬ顔で隠匿した。
 転校生の特異性が、「疑わしきは滅す」を常套手段としている『機関』の知るところとなれば、確実に彼女に危険が降りかかるはずだったからだ。ここで口をすべらせたばかりに、あの同級生が『処理』されてしまうような事態は言語道断だった。

 お互いの腹を探り合うような会合が終了すると、中市久美子と稜子がろくに身だしなみも整えず呼び出されたので一度寮に帰りたいと言い出し、亜紀もそれに付き合うことになった。
 残された男子組は、文芸部の部室へと移動した。一限目の授業開始時刻まで、まだいくらかの時間があったのだ。
 それぞれが深く考え込むうち、自然と部室には沈黙が横たわった。

 が突然あらわれて空目に抱きついたのは、このときである。







 



 ――これはどう見ても、何事かあったのだろう。

 とんと事態の理解できない俊也と武巳からしても、彼女の様子はただごとではないように思えた。ひどく余裕のなさそうな、強ばった顔つきをしていた。藁にもすがるような仕草で空目にすがりついて以来、ぴくりとも動かない。

 ……しかし、なぜ、抱きつく? 俊也と武巳は図らずも同時に思った。
 はっきりいってはげしく疑問だったが、抱きつかれている空目が何の文句も言わない以上、見ているだけの他人が口を挟める雰囲気ではなかった。

 空目は何も言わず、の背にゆっくりと両腕をまわした。
 彼女の懐に顔を寄せて、静かに目を閉じる。
 読みかけの本は存在を忘れられたかのように机に放置されていた。
 構図的には甘い空気がただよっていても良さそうなものだったが、不思議なことに、今の二人にそういった浮ついた気配はひとかけらたりもない。

 なぜか奇妙に張り詰めていた時間を壊したのは、のほうだった。

「……やばかったー……」

 はー、と深いため息をついて、ようやくは全身の緊張を解いた。
 面には最初に俊也たちが気づいたとおり、疲労の色が濃い。
 そのままヨロヨロしながら空目と離れようとすると、彼の両腕がそれを押しとどめた。

「――何があった?」

 落ち着いた声音が、短く尋ねた。
 本当はそれを真っ先に訊くべきだったような気がする俊也と武巳も、固唾を呑んで彼女の答えを待つ。はもうすっかり冷静を取り戻しており、今さらのように空目と密着具合が気になりつつも、「ああ、うん」と頷いた。

「夢に出てくる少年の勧誘がパワーアップしちゃってさ…。まいったよ。いちおう眠ってはいたんだけど、ずっと夢の中で戦い続けたもんだから、ぜんっぜん一睡もできてない気分。しかも危うくもう少しで転ぶところだった」
「例の、声だけの少年か?」
「そう。昨日あれから……えーと、武巳くんに鈴渡したあの変な人が、またわけわからん助言をしてくれてね。なんでも、夢に出てくる男の子みたいに存在が不安定なものは、私のそばにいると何か変容する可能性があるんだそうで。――あー、つっこまないで、頼むからつっこまないで。私だってそこらへんよく知らないんだから!」

 理屈屋の空目につつかれる前に、あわててはぱたぱた手を振る。

「……でね。一応そういうことを言われたもんだから、ホントに変容があるかどうか、私も気をつけて観察してみたわけよ。観察って言っても、声だけなんだけど。問題は声だけなんだけど……それが驚いたよ。最初のころより少なくとも5歳以上成長してたの」
「成長――変容、か。念を押すが、声だけか? その他、能力、性質などに変化は?」
「ううん、ない。と思う。あくまで声だけ」
「それがお前の言うところの“パワーアップ”だと?」

 空目の言い回しの暗喩するところは明らかだった。
 それがパワーアップになるのか? 彼はそう指摘したいわけだ。
 正論を示唆されたは、十年物の梅干を口いっぱいに頬張ったかのような渋い顔をした。

「君の言いたいことは一般論としてわかる。わかるけど……でも、これって、私にとってはパワーアップ以外のなにものでもないんだよー…。幼稚園くらいの男の子だったはずが、なんでか今朝は小学校高学年だよ? かわいい声して『おねえさん、おねえさん』って呼んできて、プリティ全開になつかれまくって、そのうちだんだん声は近くなってくるし、あまつさえ最後には泣き落としまでされて」

 ……ほんと、もうちょっとでぷっつん切れるところだった……。
 遠い目で語る、面食い人生堂々17年。

 空目はやはり理解できないというようにコメントを避けた。傍聴席に回っている俊也も同様。
 おおむね変人に寛容な武巳も「相手は“そうじさま”かもしれないのに…?」という異論をかろうじて飲み込むありさま。彼は代わりに、「陛下に…その、そうしてるのは、なんで?」とごく控えめな質問をした。
 果たして、照れ笑いをしながら面食いは答えた。

「私の知るかぎり一番の美形にまとわりついて、うっかり少年に走りそうになったおのれを取り戻すとともに、いざ今後への耐性をつけておこうかと」
「…………。…そ、そっか」

 賢明にも素直に相槌を打つだけにとどまった武巳の心境が、隣の俊也にもよくわかった。
 空目はいまだにの背中から両腕を解いていない。
 椅子に座っている彼に不安定な格好で抱きついている彼女は、やや身体をひねるような苦しい体勢をそろそろ終わらせたいのだが、空目は無言でそれを拒否した。
 がおずおずと、困ったように切り出す。

「……ごめん、こっちから引っ付いておいてなんだけど。ちょっとこの状態はつらいなーって」

 すると、代わりに彼のほうが座る方向を移動して、の身体のねじれを解消してくれた。
 安定性において楽にはなったが、言いたかったのはそういうことではない。
 もういいから離れようという意味だったのに、彼は何を考えたか、ますます腕に力を込めた。
 これには当のも、見守っていた二人も、唖然とした。

 魔王様、セクハラをはたらく?
 ――そんな馬鹿な。

 何か理由があるのだろうとは思っても、女の子に密着しなければならない理由とは一体。

(ていうか顔がさ……。……か、顔の場所がまずいと思うのは、私だけ?)

 立っている彼女と座っている彼。
 お互いの身長差もあいまって、空目の顔の位置がちょうどの胸部にくるのは…どうなのだろう、この場合。花も恥らう乙女としては拒絶するべきなのか。
 ひそかに動揺するあまり、冷静なんだか冷静でないんだかわからないことをは検討した。

 唐突に「」と空目が呼び、条件反射でが「な、何?」と返した。
 彼は一秒前までのかたくなさが嘘のように彼女の身体を離すと、端的に「内側から“匂い”がする」と告げた。

「ついさっき、もう少しで夢の少年に答えるところだったと言ったな?」
「う、うん」
「そうか。ならば、が夢で出会うという少年は十中八九、怪異だ。近藤たち“そうじさま”の参加者に共通する“目隠しをした少年”と同一、もしくは同類のものだと考えられる」

 空目以外の誰もが、えっ、と息をのんだ。
 彼が断定口調で言うとき、それは大抵の場合において真実である。

「――今朝から学校に充満している匂いの残り香と、もう一つ別の匂いがの内側からする。近づけば近づくほどに濃くなる。近藤たちにはこの現象はなかった」

 しかし感染ではない、と無表情な声が言う。

「おそらくは特殊なケースだ。過去においての『壁』が発動しようとする前後、しばしばこの別のほうの匂いを感じたことがある。毎回において微弱なものだが、共通点はを中心にして、匂いが発生しているということだ」
「ああっ、そういえば夏にも……! なんか空目くんがヘンに気にしてたときがあったよね」
「あのときは果実の匂いの残り香と、この匂いだった。残り香のほうは、今回の場合でいうならば単なる夢の残滓だろう。気になるのは、もう一つのほうの匂いだが――予想に過ぎないが、俺はの『壁』の作用に関わりがあると踏んでいる。過去の例を探せば、いずれもこの匂いは『壁』が強く反応した際に発現した。仮に言うなれば、『壁』の匂いだ」

 壁の匂い……。なんだそれ。
 の内心のつっこみが顔に出ていたらしく、空目は「そうだな…」と考え込んだ。

 たとえば“神隠し”は、枯れ草に鉄錆を混ぜたような匂い。
 たとえば“首くくり”は、甘く熟れた梨の果実の匂い。

 では、をときに眠らせる『壁』の匂いは。

「……雪の匂いだ。もしくは真冬の冷え切った霧雨……いや、やはり雪だな」

 しんしんと降り積もる雪に、真っ白に凍える空気。
 そんな匂いがするのだと、空目は言った。主張の強い匂いではなく、それゆえに見逃しやすいが、確かにから今その匂いを感じた、と。

 心当たりはあるのか、と全員の視線がに集まった。
 ははっきり即答した。

「ごめん、全っ然わからん

 色々と無自覚なことの多い本人の諦めは誰よりも早かった。
 思い出せないものは思い出せないのである。
 無理に思い出そうとしても脳が筋肉痛になりかねない。つまり無茶だと。

 拍子抜けするほど淡白に「まあ、そーゆーよくわからんものは横に置いといて」さっさと話を片付けた彼女は、それよりも相談したいことがあると重々しくのたまった。
 が彼らに訴えた内容は主に以下のとおりである。

 ――何とか昨夜は乗り切った。しかし次も無事にシカトできるかというと断言できない。正直にいえば、これっぽっちも自信がない。ていうかたぶん無理。だって相手はこれからも成長する可能性が高いわけで、そうすると美少年が美青年になったり美中年になったりもしていくわけで、たとえ声だけとはいえ「遊びに行こう」だの「迎えに行くよ」だのという甘い誘いがばんばんかかるわけで……! これを私に耐え抜けと!? そんなことができるなら始めから面食いになんてなるもんか!

 、未成年の主張。
 現状の辛酸と展望の過酷を彼女は涙ながらに語った。
 うかつにつっこめない切迫した空気があった。
 あの空目ですら端から説得を放棄して大部分を聞き流し、ある程度の主張が一区切りしたときを見計らって、「話はわかった」と止めに入ったほどだ。

「要はもう無策ではうたた寝もできんということだな? ――ちょうどいい、俺からもお前に提案があったところだった。どうせ危険を覚悟しなければならないなら、その原因の“そうじさま”の解明に協力しないか」

 が情報の関わりすら断った昨日から一日も経過していないのに、空目たちが『機関』に調査要請されている事態には、それなりの変化があった。
 特に、今朝方に発覚した学生寮全棟における『赤いクレヨン落書き』事件、それに付随して学校中に蔓延するようになった怪異の匂い。

 そこで空目は、自分の知覚している怪異の匂いが、学校の『落書き』にまつわるものか、それとも“そうじさま”参加メンバーにまつわるものか、学校と参加者たちを分離させてその点を調べようとしているらしい。
 よって「感染の疑いのあるの協力も得られればそれに越したことはない」と空目は言った。

「むろん、お前が『目隠しの物語』との関わりを避けたい以上、“そうじさま”参加者と行動を共にすることのリスクは無視できない。俺もお前の状態がそこまで進退きわまっている前提でなければ、言ってみるつもりもなかった」
「……なるほど。そうだね……、どうやっても危ないなら、“そうじさま”の仕組みを理解して新しい対策が見つかるかもしれないほうを選んだほうが建設的だよね」
「強要はしない。お前の協力がなければないで、別の方法を取ることも可能だ」
「わかってるよ、そこらへんの君の手際は心配してない」

 個人主義な空目らしい言葉選びに、はちょっとだけ頬をゆるませた。
 どんなときでもおのれのペースを乱そうとしない変人を頼もしいと思った瞬間だった。

「……うーん。なんかもー我慢が焼き切れるのも時間の問題だし。そっちに協力しちゃおっかな」

 あー、うん。そうしようそうしよう。協力する協力する。
 満足に眠れていないために青白い顔色では英断した。
 しかし、それは英断というよりは限りなく投げやりに近いように聞こえた。俊也と武巳が思わず顔を見合わせる中、開き直った彼女は空目の向かい側の席に座る。
 アイコンタクトのやりとりのあと、代表で俊也が口を開いた。

「……
「うん?」
「具体的に何をするかくらい知ってから決めたほうがいいんじゃねえか」
「そういえばそうだね。空目くん、私は何やればいいの?」
「ひとまず皆と一緒に今週末に俺の家に外泊してくれればいい」
「りょーかい。そのくらいならやっぱり協力できるよ」

 再検討あっさり完了。
 非常に簡潔だったやりとりに、心配していた二人は今度こそ口をつぐんだ。
 人跡未踏の魔王陛下と謎が謎を呼ぶ協力者。他人には計り知れないようでも彼らの間には何らかの信頼があるのかもしれない。…たぶん。






 週末の予定が急遽今夜に繰り上がったのは、それからすぐのことだった。
 稜子とともに女子寮に行ったはずの亜紀から、異変を告げる電話が入ったのだ。

 ――中市久美子、失踪。

 寮の自室へと一時的に戻っただけのはずの彼女は、忽然と姿を消した。クレヨンで真っ赤に染まった部屋が、まともな事態による失踪ではないことを示唆していた。








 立ち入り禁止の黄色いテープと、同様の張り紙。
 はちょうど周囲に人気がないのをいいことに、無理やり少しばかりの隙間を作って、ついでに特技の透視能力も駆使して室内を覗いてみた。

「これは……すごいな」

 怖いものもヘンなものも見慣れているでさえ、その部屋の強烈さには眉をひそめた。
 赤いクレヨンで染まった壁、床、天井。
 怪物が人間を食らうモチーフの落書きもあれば、クレヨンを手のひらにつけて押したようなあともある。鼻が麻痺してくるようなクレヨンの臭気が充満し、赤い視界にイヤな迫力を付け加えていた。

(……これじゃ、もう……ふつうの人は……中市さんは、戻ってこられない)

 真っ赤な部屋は、には断末魔の叫びのように感じられた。
 これだけのことがあったのでは、おそらく無理だと思う。説明できる根拠がないことは自覚していたから、は一人、そっと黙祷をささげた。

(覚悟を決めたほうがいいのかもしれない)

 領域の壊れる覚悟。世界が変わるほどの衝撃を受け止める覚悟を。
 本当は少し前から気がついていた。
 なくしていた記憶の手がかりが、そこにあるのだろうと。
 世界が一変するほどの衝撃とは、忘れていたものを思い出すことではないかと……。

(もう逃げられないのなら――突っ込むのもまた一興よ)

 誰にも明かさない覚悟を決めて、は狂気に濡れた部屋をあとにした。
 でもやっぱり怖いなあ嫌だなあと内心で盛大にびびってもいるのはほんのご愛嬌である。
 それでも逃げ出さないでいられるのは、彼との約束を忘れていないから、というのも大きい。泣きながら宣言した、あの一方的な誓いを――彼は決して守ってくれなどと言ったことはないけれど。は勝手ながら彼を“こちら側”につないでおくと決めたのだから、いつまでも離れてはいられない。

 そして、舞台は空目宅へと移る。

















next


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ふう、ようやくここまで来たー! と気がついたらもう21話。
これは長い。長いですよね、そうですよね……。(しみじみ)
このMissing連載は一話一話の話が長いから余計に長いんです。

……い、いやいや、ちゃんと終わらせますからご安心を。大丈夫です。
ああしてこうしてアレ風味のそんな感じの展開にもっていけば自然と!
(自然と……たぶんそういう雰囲気になってたぶん……!)(汗)


(2004.09.23)